マリア・アントーニエ・フォン・コハーリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マリア・アントーニエ・フォン・コハーリ
Maria Antonie von Koháry

出生 (1797-07-02) 1797年7月2日
ハンガリー王国ブダ
死去 (1862-09-25) 1862年9月25日(65歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
配偶者 フェルディナント・ゲオルク・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
子女 フェルディナント
アウグスト
ヴィクトリア
レオポルト英語版
父親 コハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ公コハーリ・フェレンツ・ヨージェフ
母親 マリア・アントニア・ツー・ヴァルトシュタイン
テンプレートを表示

マリア・アントーニエ・ガブリエーレ・フォン・コハーリドイツ語: Maria Antonie Gabriele von Koháry1797年7月2日 - 1862年9月25日)は、ハンガリー王国マグナートハンガリー語名は、コハーリ・マーリア・アントーニア(Koháry Mária Antónia)。

生涯[編集]

ハンガリー貴族コハーリ・フェレンツ・ヨージェフと、その妻マリア・アントニア・ツー・ヴァルトシュタインの娘としてブダで生まれた。兄が夭折していたことから、幼くしてコハーリ家の女子相続人となった。

1815年11月、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツの次男フェルディナントと結婚した。フェルディナントとの地位の釣り合いをとるため、フェレンツはオーストリア皇帝フランツ1世からコハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ公(Fürst Koháry de Csábrág et Szitnya)の称号を授かり、マリア・アントーニエも公女(Prinzessin)と呼ばれるようになった。ニーダーエスターライヒ、ハンガリー、スロバキアにおいて、マリア・アントーニエは8万ヘクタールを超える所領や鉱山、森林、工場を所有しており、第一次世界大戦が終わるまでザクセン=コーブルク=ゴータ=コハーリ家はハンガリーの三大地主の一つに数えられていた。

子女[編集]

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、マリア・アントーニエ・フォン・コハーリに関するカテゴリがあります。