フランク・ニコラス・マイヤー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1909年のマイヤー

フランク・ニコラス・マイヤー(Frank Nicholas Meyer、蘭語:Frans Nicholaas Meijer、1875年 - 1918年)は、オランダ生まれで、アメリカ農務省に雇われてアジア植物を収集したプラントハンターである。

略歴[編集]

1875年にアムステルダムに生まれた。この時点ではフランス・ニコラス・マイヤーという名前だった[1]。子供の頃からアムステルダム植物園に入り浸り、当時植物園の園長だった植物学者ユーゴー・ド・フリースの目にとまり、14歳の時、アムステルダム植物園で庭師見習いとなった。ド・フリースはマイヤーに目をかけ、フランス語英語の学習や科学の習得の手助けをし、マイヤーを科学者への道に導いた[1]。マイヤーは兵役期間を除く8年間をアムステルダム植物園で過ごし、実験庭園を管理する庭師長まで昇進した。

マイヤーは離職後、外国の風景や植物に触れる目的で、旅費を養樹園で稼ぎながら南欧を巡る徒歩旅行に出る。旅行中、スペインのオレンジ園に強い興味を惹かれた。旅の一環としてイギリスに渡ったマイヤーは、しばらくロンドンの養樹園で過ごしたのちに、1901年にアメリカ合衆国に渡り、改名してフランク・ニコラス・マイヤーとなった[1]

ド・フリースの紹介状でワシントンD.Cにあるアメリカ農務省の温室に職を得ることができたが長居はせず、4年の間にカリフォルニアを抜けてメキシコに植物採集を行った後、キューバにも足を向けた。農務省でのマイヤーは、デビッド・フェアチャイルドチャールズ・スプレイグ・サージェントの2人の知己を得る[1]。旅好きのマイヤーは、この2人から1905年に農務省の中国の植物を集めるプロジェクトのメンバーに選ばれた。

最初の調査旅行は1905年から1908年の期間、上海から中国に入り、湖北省満州を巡り帰国した。調査中、イチョウビャクシンなど、数多くの植物標本がアメリカに送られている。その後も1909年から1911年、1912年から1915年、1916年から1918年と、のべ14年間にかけ、モンゴル朝鮮チベットなど中国全域にわたる探検を行い、2500種の有用植物をアメリカ合衆国に送った[1]

1918年、宜昌荊門の調査中に長江汽船から落ちて死亡した。植物とともに中国の風景の1000枚あまりの写真を残した。

柑橘類マイヤーレモンに名前が残されている。

アメリカ農務省は彼の貢献を記念してフランク・N・マイヤー賞(Frank N. Meyer Medal for Plant Genetic Resources)を設けた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e ラスロー 2010, pp. 68–71.

参考文献[編集]

  • ハーバード大学の記事
  • ピエール・ラスロー 著、寺町朋子 訳『柑橘類の文化誌:歴史と人の関わり』オーム社、2010年。ISBN 9784903532608