ノート:韓国を輝かせた100名の偉人たち

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訳出にあたって[編集]

韓国人にとっての歴史上の重要人物のリストとして興味深いのではないかと考え、訳出してみました。しかし、かなり「超訳」になっているところもあります。韓国語に通じておいでの方のチェックをお願いします。

また、よくわからずに原語のままにしてあるところもあります。具体的には、

  • 朝鮮王朝初期の諸王に付けられた「태정태세문단세」という付記
  • パロディとされる曲の名「한국을 조진 100인의 개새끼들」

については、そのままになっています。

改訳、加筆を含め、記事の改善にご協力いただけますようお願い申し上げます。--山田晴通会話2012年11月3日 (土) 23:47 (UTC)[返信]

山田氏が投稿した記事内容について[編集]

コメント 翻訳とのことなので、元記事自体の問題かもしれませんが、出典が全くないのに大げさな表現が目立ちます。翻訳しただけで自分で何一つ出典等をつけないというのは。怠慢ではないでしょうか。元記事自体に出典がついてなかったから仕方ないだろ、と開き直るつもりかもしれませんが、ウィキペディアでは出典が重視されています。もしそういうつもりなのだとしたら、そのような態度は今すぐおやめいただきたいと思います。以下、理由を述べます。--114.48.182.172 2012年11月4日 (日) 23:00 (UTC)[返信]

コメント 【理由】ざっと見ただけでも、何ら出典もなく「事実とは違うという説がある」「在来種だったとする説もある」などと書かれていますが、これではそのような学説や定説があるのか、それとも山田氏の個人的な独自研究なのか、元記事執筆者の個人的な独自研究なのか、さっぱりわかりません。翻訳記事を投稿した後で、せめてご自分で出典を提示してほしいです。「通説の信憑性は落ちた」なども単なる執筆者の個人的な分析なのか、そうでないのかさっぱりわかりません。「たまたまその後に続く金富軾の修飾句のように誤認されることがある」というのも、誤認されることがあると山田氏(もしくは元記事の執筆者)が個人的に考えているだけなのか、それとも心理言語学や音韻論あるいは認知科学などの研究書でそのような指摘があるのか、あるいはマラプロピズムとかでもよいですがなんらかの典拠でもあるというのか、それらも含めて全く謎です。「作詞したパク・インホは、歌詞の韻を合わせるための変更があることを明らかにしている」にいたっては、それこそ初出を示すべきでしょう。「李完用は売国の代名詞とされている」といった表現も、かなり大げさで大言壮語のようにもみえますが、本当にそのような状況なのかを裏付ける出典すらありません。
また、「よくわからずに原語のままにしてあるところもあります」とのことですが、そのような語学力であるなら、ご自分で訳さずとも翻訳依頼を出した方がよかったのではないでしょうか。
いずれにせよ、ウィキペディアで重視されているのは出典の提示であり、今回の山田氏のように出典を提示しないのはダメでしょう。元記事に出典がついてなかったのかもしれないですが、それならいったん翻訳した記事を投稿後、山田氏がご自分で出典を捜し、それを追記すべきでしょう。出典を探すつもりが最初からないのであれば、こういう記事を投稿するのは勘弁してほしい。--114.48.182.172 2012年11月4日 (日) 23:00 (UTC)[返信]
「李完用は売国奴の代名詞とされたが、将来への備えをした愛国者であった。」と記載されていましたので、私がとりあえず修正しました。歌詞を読んでいない証拠です。--hyolee2/H.L.LEE 2012年11月4日 (日) 23:07 (UTC)[返信]
ありがとうございます 情報ありがとうございます。最初は山田氏が「李完用は売国奴の代名詞とされたが、将来への備えをした愛国者であった」と書いていたのを、hyolee2氏が「李完用は売国の代名詞とされているが、安重根との対比である」に訂正してくれたということですね。ありがとうございます。しかし、訂正前後の文章を比較すると、「将来への備えをした愛国者であった」という記述は一体どこから出現したのでしょうか。山田氏の個人的な主張でしょうか。李完用氏に対しては、さまざまな評価がなされていることは知っています。しかし、記事本文にて何の出典もなしに「将来への備えをした愛国者であった」と断言するのはいかがなものでしょうか。山田氏は李完用氏のことを「将来への備えをした愛国者であった」と個人的に評しているのかもしれませんが、それを裏付ける出典を提示していないのでは記載はできないと思います。ここは独自研究の開陳を目的としたサイトではありませんから、山田氏の個人的な主義主張を混ぜ込むのはおやめください。hyolee2氏からは「歌詞を読んでいない証拠です」とまで指摘されています。山田氏がなぜこのような記述を混ぜ込んだのか、きちんと説明していただきたいと思います。--114.49.34.212 2012年11月5日 (月) 03:04 (UTC)[返信]
コメント 「●●は▲▲の代名詞」という表現についても、百科事典にふさわしくない大げさな表現のように思います。「●●は▲▲の代名詞」だと評されている客観的な出典がなければ、書けない記述ではないでしょうか(もちろん出典もなしに「将来への備えをした愛国者であった」と断言するのは論外です)。それ以外にも出典なしではおよそ不適当と思われる表現が散見されるとともに、特筆性をあることを裏付けるような出典すらありません。山田氏はこの記事に特筆性があると判断したから、投稿したのですよね? しかし、特筆性があることを示すような出典はなにも提示されていません。特筆性があると判断したのなら、あなたがそう判断した裏付けとなる出典を提示してください。機械的に「他言語版に存在するイコール特筆性がある」とでも考えているのかもしれませんが、無精せずちゃんと出典を提示してください。だいたい、「機械翻訳して単純に日本語版に持ち込むだけ」ならbotでもできる行為です。持ち込んだうえで、きちんと出典を附与するなり、百科事典にふさわしい記述にするなり、メンテすべきではないでしょうか。まして誤訳だらけだというなら、bot以下だと思うんですが。出典を提示することの重要性についてご理解いただいていないようなら、山田氏は投稿するより前にウィキペディアのルールやマナーについてもう少し学んでからにしてはいかがでしょうか。--114.49.34.212 2012年11月5日 (月) 03:04 (UTC)[返信]

(インデント戻します) IP氏におかれましては諸々のご指導をいただき感謝申し上げます。また、hyolee2さんには、いつもながら具体的に誤訳を修正していただきありがたく存じております。とりあえず、山田は韓国語はごく限られた知識しかない状態で、翻訳をやっております。また本件については、歌詞の全文は翻訳を試みていません。そんなことなら翻訳依頼を出すに留めるべしというお考えもあろうかと思いますし、誤訳だらけの記事を乱造するのはけしからんとお考えの方も少なからずおいでかと思います。そうした声については、今後の具体的な個別のケースの場合に、より慎重に対処するよう心がけます。また、とりあえず、本人としては、翻訳の質についてはただただ恐縮するよりほかはありません。上でも「かなり「超訳」になっているところもあります」と正直に申し上げております通りです。もし本件、ならびに、過去および今後の山田の記事作成について問題があるとお考えでしたら、コメント依頼などをご活用いただくのもよろしいかと存じます。

なお、李完用については、「대비=対比」を読み取れず文意をとれなかったところで、「李完用#評価」の記述に少なからず引っ張られて誤釈したものです。山田がこの人物を個人的にどう評価しているかといったこととは関係ありません。この点については、誤訳を具体的に改めていただいたhyolee2さんに、重ねてお礼を申し上げます。--山田晴通会話2012年11月5日 (月) 14:33 (UTC)[返信]

質問 山田氏からの回答はほとんどが翻訳についての釈明です。出典を明示するよう指摘させていただいたのですが、その件については一切スルーとはいかなることでしょうか。今後も一切出典を出すつもりはないという意思表示ととらえたほうがよいのでしょうか。特筆性があることを示すような出典を提示するつもりは一切なく、出典を附与するなり百科事典にふさわしい記述にするなりといった対応もするつもりはないということでしょうか。また、「「李完用#評価」の記述に少なからず引っ張られて誤釈した」とのことですが、山田氏はウィキペディアのページを典拠代わりにしていつも記事を投稿しているのでしょうか? 出典の重要性やルールについて一度確認してから投稿していただけないでしょうか。なんとウィキペディアのページを典拠にしていたとは…。まさか、それ以外の典拠は一切確認していない、なんてことはないでしょうね?--以上の署名のないコメントは、114.48.190.56会話/Whois)さんが 2012年11月6日 (火) 03:23 (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。[返信]
出典の件は、下の節でお答えしております。山田が「ウィキペディアのページを典拠代わりにしていつも記事を投稿している」ようなことがあるかどうかは、「利用者:山田晴通」からリンクがたどれる、山田が初版を作成した記事をご覧いただいてご判断ください。また、ウィキペディアの他記事の記述を判断の参考にすることと、「典拠に」することはまったく異なると考えます。--山田晴通会話2012年11月6日 (火) 13:11 (UTC)[返信]
コメント山田が「ウィキペディアのページを典拠代わりにしていつも記事を投稿している」ようなことがあるかどうかは、「利用者:山田晴通」からリンクがたどれる、山田が初版を作成した記事をご覧いただいてご判断ください」とのことですが、山田氏が初版を作成した記事を眺めても判断できるわけないでしょう。今回は「「李完用#評価」の記述に少なからず引っ張られて誤釈した」とのことですが、記事本文には「「李完用#評価」を参考にした」などと明記されているわけではありませんよね。したがって、記事を読んだとしても、ウィキペディアのページを典拠代わりにしているのかどうかは判断がつくわけがありません。今回は山田氏が自ら明かしたから発覚したのでしょう? ご本人が明かさなければ判断がつかないと思うのですが……。「山田が初版を作成した記事をご覧いただいてご判断ください」などと無茶なことをおっしゃらずに、山田氏が典拠代わりにしてるのかしてないのか自らご回答いただければそれで済む話ではないでしょうか? それとも、回答できない事情でもおありなのでしょうか。回答すると何か都合が悪いことでもおありですか。--114.48.212.31 2012年11月7日 (水) 02:44 (UTC)[返信]
コメント 山田氏に再度ご要望いたしますが、きちんとした出典を提示いただけますでしょうか。なにも「今すぐ全部の記述に出典をつけろ」と申し上げているわけではありません。本記事は他言語版から持ち込まれた翻訳記事です。他言語版から日本語版に持ち込む際、山田氏はこの記事に特筆性があると判断したから、この記事を翻訳して日本語版に投稿したのですよね。ということは、この記事に特筆性があることを示す何らかの出典が、既にお手元にあるはずですよね。まずはそれを提示すべきではないでしょうか。
現状の記事には、特筆性を担保するような出典は全くないといってもいい状況です。山田氏はこの記事に特筆性があると考えたから、この記事を投稿したのですよね。だったら特筆性を担保するような出典をお持ちのはずですよね。それを提示すべきではないでしょうか。これほどまでに指摘されているのに、未だ出典の提示を拒むというのは非常に不可解です。ご自分が特筆性ありと判断した根拠すら提示できないというのは、いったいどういうことなのでしょうか。まさか他言語版に存在したからというただそれだけの理由で機械的に投稿したわけではないですよね。でしたら、特筆性あることを示す典拠がすぐに提示できるはずですよね。--111.191.161.108 2012年11月7日 (水) 03:37 (UTC)[返信]
コメント これだけ山田氏にご要望を挙げているにもかかわらず、山田氏は言い訳を繰り返すだけで結局何の出典も提示せぬままここまで時間が経過してしまいました。他言語版からの翻訳記事である以上、翻訳者は、この記事は日本語版に投稿するに足ると判断したから翻訳したはずです。とすれば、その時点で何を根拠に特筆性があると判断したのか、その典拠を示してほしいと申し上げているだけです。何も難しい要望ではないはずですよね。全部の記述に今すぐ出典をつけろと言っているのではありません。翻訳者である山田氏が、この記事に特筆性ありと判断した根拠を、出典付きで提示してほしいと申し上げているのです。翻訳時に当然お手元にそのような出典があったはずですよね。もし、図書館で借りた本で今手元にないのであれば、ページ数は難しいかもしれませんが書名くらいは挙げられるはずですよね。しかしながら、山田氏は典拠を挙げないばかりが、なぜ典拠を挙げないのかについても説明を拒み続けています。なぜ、出典を隠ぺいしようとするのでしょうか。なにか出典を提示できない理由でもあるのでしょうか。よもや「何の根拠も持ち合わせていないが、単に機械的に翻訳しただけ」などと言い出すことはないでしょうが、山田氏は出典の提示を拒む理由を明確に説明してほしい。そのうえで、きちんとした出典を今すぐ挙げていただきたい。--114.48.218.255 2012年11月8日 (木) 14:36 (UTC)[返信]
(コメント)出典の中に宣伝サイトが含まれていたため、該当サイトに対しては出典無効処理をしました。--hyolee2/H.L.LEE 2012年11月9日 (金) 10:54 (UTC)[返信]
コメント ご説明ありがとうございました。当該典拠を除去しました。--山田晴通会話2012年11月9日 (金) 11:05 (UTC)[返信]
質問 一応確認なのですが、山田氏はちゃんと出典先に目を通したうえで、典拠として挙げているんですよね? hyolee2氏から「歌詞を読んでいない証拠です」などと辛辣な指摘がなされていました。今回は、ちゃんと出典先に目を通し理解したうえで典拠として挙げているのでしょうか。ちゃんと理解しているなら、宣伝サイトが含まれるという事態が起きることはないと思うのですが。しかも、山田氏はhyolee2氏から「出典無効は依然として解決していない」との指摘を受けたにもかかわらずこのサイトを典拠として挙げることを強行し、hyolee2氏の会話ページに乗り込んで「なぜ出典無効なのか確認をさせていただきたく」などと主張しています。ほんとうにちゃんと翻訳して理解しているなら、こんなことは起きないと思います。--114.48.183.237 2012年11月11日 (日) 07:10 (UTC)[返信]
「ちゃんと」というのがどの水準の理解をさすのかわかりませんが、「出典先に目を通し理解したうえで典拠として挙げているの」は当然です。しかし、IP氏に比べれば、山田は愚鈍で粗忽な者でしょうし、愚鈍な者が一生懸命にやっても、聡明な方にはいくらでもアラが見えるでしょうから「ちゃんと」していないというお叱りは避けて通れないものと思います。
念のため、事実経過を確認すれば、2012年11月9日 (金) 06:04‎ におけるHyolee2氏の編集で出典無効タグが貼付けられましたが、要約欄にはなぜ出典無効かと行った情報は記載されていませんでした。山田は、改めて無効とされた出典ページを再読し、この時点での記事の記述(韓国語版から訳出したもの)が、知訥を宗派としての曹渓宗を「開いた」と表現しているのに対し、典拠としたページの記述ではそれが明記されていないことが問題にされたのかと誤解しました。実際、曹渓宗を開いたのは義天であり、現在の典拠ページにあるように、知訥は中興祖とされる人物です。そこで、2012年11月9日 (金) 09:05の山田の編集で、典拠はそのままにして、記述を変更する編集をし、出典無効を除去したところ、2012年11月9日 (金) 06:33 におけるHyolee2氏の編集 で「出典無効は依然として解決していない」という要約欄のコメントとともに、出典無効タグが再度貼付されました。山田はこの時点で、Hyolee2氏がなぜ出典無効とされているのか理解しておりませんでしたので、 2012年11月9日 (金) 10:07‎ の時点で Hyolee2氏の会話ページに質問を書きました。これを受けて、Hyolee2氏が、2012年11月9日 (金) 10:54時点でノートにコメントを残され、「出典の中に宣伝サイトが含まれていたため、該当サイトに対しては出典無効処理をしました。」と理由をお知らせいただきましたので、指摘された典拠を削除したというものです。
こうした経緯をご承知のうえで、これを「山田氏はhyolee2氏から「出典無効は依然として解決していない」との指摘を受けたにもかかわらずこのサイトを典拠として挙げることを強行し、hyolee2氏の会話ページに乗り込んで「なぜ出典無効なのか確認をさせていただきたく」などと主張しています。」と表現されるのは、ご真意を測りかねます。ここで「乗り込んで」、「主張」という言い回しをされるのは、特定の方に、ウィキペディアにおけるその方の編集の意図を質問をしたことについて言及する表現として適切なのでしょうか。まるで、山田がHyolee2氏の会話ページで何らかの自説の「主張」を展開したかのような誤った印象を与えかねないと思います。
なお、Hyolee2氏が宣伝サイトとされたサイトについて、山田はここで除去することを了解し、自ら除去の編集をしましたが、実際に宣伝サイトといえるか否かについては、議論の余地があると考えています。Hyolee2氏が宣伝サイトとされたサイトについて、直ちに宣伝サイトであると断じることが適切であるという判断は山田にはありませんでしたし、現在もありません。除去の編集をしたのは、その疑いをもつ方が現においでになり、また、別の典拠によって記述が支えられている状態であったからです。
Hyolee2氏が出典無効の理由が宣伝サイトであるということを最初は明記されていなかったのは、書かなくても了解されるとおもわれたからでしょうが、山田にはそれが了解できなかったということです。そこで、コミュニケーションをとり、適切に対処をしたと考えております。IP氏のように聡明な方々には、愚鈍な人間の思考回路はなかなかご理解いただけないかもしれませんが、山田としては誤った事を行なったという認識はありません。ご批判を重ねられても、ただただ恐縮するばかりです。もちろん、以前にも同様の趣旨のことを述べたかと思いますが、かくも愚鈍な人間である山田が、その愚鈍さ故にコミュニティに無用なストレスを与え、疲弊させる存在であると判断されるなら、コミュニティから排除されてもやむを得ないものと考えております。--山田晴通会話2012年11月11日 (日) 16:12 (UTC)[返信]

記事名と定義文にすら齟齬が生じている件[編集]

質問 記事名は「韓国を輝かせた100名の偉人たち」と記載しつつも、定義文には「韓国を輝かせた100人の偉人たち」と書かれています。これはどういうことですか?

山田氏による初版では、記事名は「韓国を輝かせた100名の偉人たち」としておきながら定義文には「韓国を輝かせた100人の偉人たち」と記載しています。初版の時点で、既に記事名と定義文との間に齟齬が生じています。ちょっとどういうことなんでしょうか。記事本文の冒頭1文目の定義文が、いきなり記事名と異なるというのはかなり違和感があるのですが。

グーグルで検索すると、「韓国を輝かせた100名の偉人たち」で検索しても「韓国を輝かせた100人の偉人たち」で検索しても、どちらもそれなりに件数がヒットしています。「日本語に翻訳した時の表記に揺れがあるから」なのか、「一方が正式な日本語タイトルで、もう片方はよくある誤記」なのか、「どちらもよくある誤記で、本当の正式な日本語タイトルは別にある」のか、ちょっと私には判別できません。

個人的には「100名」より「100人」のほうが砕けた感じがしますので、「100人」のほうがふさわしそうな気がします(たとえば『一年生になったら』の歌詞の一部「ともだちひゃくにん」が「ともだちひゃくめい」だったとしたら若干雰囲気が変わる)。とはいいつつも、ウィキペディア利用者が勝手に「名より人のほうがふさわしい」と決めつけることはできませんので、きちんとご回答いただきたいのですが。

もし、日本語表記に揺れがあるというなら、人口に膾炙する方を記事名に採用すべきかと思います。そのうえで、双方の表記があると本文に明記すべきでしょう。もし正式な邦題が既に定められているというなら、それを記事名に採用し、定義文もそれにそろえるべきでしょう。いずれにせよ、記事名と記事本文の冒頭一文目に齟齬が生じているなど、通常の記事ではおよそありえないです。基本中の基本でしょう。記事本文の一文目ですから山田氏の見落としとも考えにくく、何か意図があるのかはかりかねております。--以上の署名のないコメントは、114.48.190.56会話/Whois)さんが 2012年11月6日 (火) 03:09 (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。[返信]

これは単純な誤記です。確かに、「명」は「名」の読みですので「名」とするのが本来かと思いますが、日本語では「人」とした方が自然な例も多く、検索してみると「人」と訳している方が多いようです。しかし、公的な裏付けのある訳し方は確定していないので、原稿作成の途中で揺れが生じたということです。いずれを正式とするにしても、もう一方からリダイレクトがあった方がよいと考えますので、とりあえう、リダイレクトを作成しました。記述の統一については、こちらで議論を続けていただければよろしいかと思います。初版作成者としてはどちらでも構いません。--山田晴通会話2012年11月6日 (火) 13:18 (UTC)[返信]
ありがとうございます なるほど、状況了解しました。記事本文の冒頭一文目であるにもかかわらず、記事名と齟齬が生じていることに気づかず、そのまま投稿してしまった、とおっしゃるわけですね。「公的な裏付けのある訳し方は確定していない」とのことですから、正式な訳語は決まっていないが日本語の表記ゆれとして2パターンがあるということなんですね。どちらを記事名とするのかは検討したほうがよさそうですね。--114.48.149.241 2012年11月6日 (火) 17:49 (UTC)[返信]
コメント記事名は東亜日報と朝鮮日報の日本語記事にある表記「韓国を輝かせた100人の偉人たち」でよいと思います。ついでに、歌詞の内容に関しては、インフォボックスを追加するなどして、曲自体が出典となっていることが分かるようにすれば、要出典タグを取り除いてよいと思います。--Bugandhoney会話2012年11月9日 (金) 16:11 (UTC)[返信]
ありがとうございます なるほど、ありがとうございます。Bugandhoney氏の挙げてくださった典拠は、報道機関での表記例ですから「韓国を輝かせた100人の偉人たち」のほうが望ましいという根拠になりえると思います。--114.48.183.237 2012年11月11日 (日) 07:10 (UTC)[返信]
情報Wikipedia:井戸端#翻訳記事に出典が挙げられていない場合、どうしたらよいですかに関連する議論があります。--Bugandhoney会話2012年11月9日 (金) 16:46 (UTC)[返信]

対話姿勢について[編集]

コメント 山田氏に対して、出典についてお伺いさせていただきました。ところが、山田氏は、翻訳の件についての釈明に終始し、出典を明示するようにとの指摘については完全に黙殺している状況です。誤訳かどうか、という観点については、率直に申し上げて修正すれば事足りるのではないかと思います(あまりにもひどい誤訳でない限り)。しかし、出典の提示、という観点については、ウィキペディアの重要な柱であり、出典を提示しない=記事の投稿自体が許されない くらいの重大な要素だと思います。しかしながら、山田氏は一貫して出典についての指摘には何の回答もなさないばかりか、記事本文に対しても初版以降、なにひとつ出典を提示しておりません。翻訳の誤りは修正がききますが、出典を提示できないというのはそもそも投稿すること自体問題ではないでしょうか。また、出典について質問してもゼロ回答とは、対話する姿勢があるとは思えません。さらに、一人称として自らの姓を使用なさっているようですが、一人称として自分の名前を使って許されるのは幼児期まででしょう。自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だと思います。(それこそ、成人男性で許されるのは矢沢永吉くらいでしょう。しかし、あえてYAZAWAと呼称して、第三者視点で自分を客観視しているさまを表しているわけですから、山田氏と同一には扱えないと思いますが)。別に山田氏がYAZAWA気取りなのをとやかくいうつもりはありませんが、少なくとも出典の提示は重大な問題であり、最低限お伺いしたことにはお答え願いたいのですが。--111.188.199.119 2012年11月6日 (火) 09:40 (UTC)[返信]

コメントコメントありがとうございます。まず、以下の記述をする前提として、 2012年11月6日 (火) 09:40に上記のコメントをさせられた111.188.199.119 さんは、冒頭で「山田氏に対して、出典についてお伺いさせていただきました。」と仰っておいでですので、2012年11月4日 (日) 23:00時点に「山田氏が投稿した記事内容について」を投稿された114.48.182.172さんと同じ方であることを前提にIP氏とお呼びして、応答いたします。
翻訳に際して、翻訳者が原文にどのような態度で臨むべきかというIP氏のご見解は了解しました。特に「出典の提示、という観点については、ウィキペディアの重要な柱であり、出典を提示しない=記事の投稿自体が許されない くらいの重大な要素だと思います」というのは、まさに強く同感するところであり、わが意を得た思いです。この点は、原稿の新規作成に際して山田が最も重要な点として心がけているところですし、また、他の執筆者が作成した記事についてテンプレート等で注意を喚起する事が少なからずある論点です。
しかし、一方で、日本語版においても、他言語版においても出典を十分に提示しない記事は多々存在しており、単純に「記事の投稿自体が許されない」と力んでも仕方がないところもあります。そうした記事の記述に典拠が必要だ、典拠がなければ記述の除去、ないし記事の削除が必要だ、と判断されるのであれば、今回IP氏がまさになさっているように要出典のタグを付け、その後しかるべきときに記述を整理すればよいだけのことです。最終的には、日本語版のコミュニティがその当否を判断するでしょう。
さて、IP氏と山田で認識が異なっているのは、翻訳記事の場合であるように思われます。山田は、翻訳記事においては、基本的には原記事にない典拠の追加は好ましくないと考えています。これまで山田が手がけてきた翻訳記事の中には、デッドリンクになっているリンクを削除したり、それに代わるリンクを代わりに入れて翻訳したケースもあります。しかし、もともと出典が不足している記事について、翻訳者が勝手にこれが典拠になるだろうと判断したリンクを加筆するのは、少なくとも初版においては好ましくないと考えています。翻訳とはいえない、編集の要素がそこに含まれてくるためです。また、そのような場合に、自分の判断で典拠を追加する責任は基本的にないというのが山田の認識です。
そのような事例において、最も好ましいのは、初版でいったん原記事のままの典拠,リンクで訳した上で、改めて、より適切な典拠、リンクを加筆する(必要な場合には無効なものを除去する)編集をするという手順を踏む事かと思います。しかし、典拠が乏しい記事が訳出されてもコミュニティがその存続を容認する事もあります。典拠の補充への強い要請がなければそのまま記事が残る事もあるわけですから、そのような記事を訳出する事自体が、「記事の投稿自体が許されない」ほどのものであるとは考えていません。
今回の場合、山田は不得手な韓国語の記事に手を出したわけですが、その大きな理由はこの記事が韓国人の歴史認識を反映した人物名のリストとして興味深く、また、有益ではないかと考えたからでした。韓国語の歌詞も入手しましたが、最初の方を訳してみたものの途中で根を上げて放り出したと言うのが実際です(訳したとしても著作権がありますから記事には掲載できないということがやる気を削いだというところです)。仮に自力でこれから典拠を探すとしても、相当の時間が必要になりますし、山田が感じたような意味での有用性を日本語版のコミュニティがこの記事に見出せないのであれば、また、利用者の多くが、(山田によるものであれ、誰か別の方のものであれ)加筆を待てないから記述の除去、さらには記事の削除をせよとお求めであるなら、それはそうなるのでよろしいのだろうと思います。
なお、「山田氏は一貫して出典についての指摘には何の回答もなさないばかりか、記事本文に対しても初版以降、なにひとつ出典を提示しておりません。」とのご指摘ですが、山田の記事投稿( 2012年11月3日 (土) 23:42‎)から、このコメント(2012年11月6日 (火) 09:40)まで、2日半、IP氏の最初のコメント(2012年11月4日 (日) 23:00)1日半しか経っていない時点で、また、その間の山田の応答機会が事実上1回(編集は誤字修正を含めて2回)の時点で、「一貫して」と仰るのは、日本語の表現としていささか不自然であるように思います。1回しか応答していないのですから「一貫して」いるのは当たり前ですが、普通は複数の機会があるものについてしか「一貫して」という表現は用いないように思います。出典を示す努力を放棄しているつもりはありませんが、やろうとしても時間はかかりますし、上に述べたようにコミュニティがそれを待てないと言う事であれば、適正な手続きに従って、記述の除去、記事の削除へと事態が進んでも異論はありません。どうか、印象操作であるように誤解される言い回しはお控えください。
最後に、日本語における自称の方法についてのご高説は承りました。IP氏や、このやり取りをご覧になる方々が、山田を「幼児期」にあるとか、「YAZAWA気取り」であるとお考えになるのはご自由です。少なくとも山田は「自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だ」とは考えておりません。山田が、とくにウィキペディアでの議論や、掲示板でのやりとりで、自称に姓を用いるのは、3人以上の複数の人物がやり取りをかわす局面で、「私」などの一人称を用いると、署名を確認しながらでないと他者の発言と誤解される事があり得るという考えからです。自分以外の方については、敬称(さん、氏、など)を付けますので、山田が発言者の自称である事は容易に了解される事かと思います。なお、「自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だ」といった内容を述べた学術的議論は承知しておりませんので、この際、参考になる文献がありましたらご教示いただければ幸いです。
また、山田の「対話姿勢」については、「Wikipedia:コメント依頼/山田晴通」にもコメントを頂戴できれば幸いです。
引き続き、ご指導をよろしくお願いいたします。--山田晴通会話2012年11月6日 (火) 13:00 (UTC)[返信]
質問「自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だ」といった内容を述べた学術的議論は承知しておりません」とのことですが、一般書でよろしければビジネスマナーの本など文献は多数見つかりますよね。おそらく、多数の文献を挙げられるのが嫌だったから、あえて「学術的議論」に限定して予防線を張ったのですね。さて学術的な研究といえば、日本国内なら長田先生、国外なら古いところでワロン先生が思い浮かびます。少し前に同種のテーマの発表を聞いた覚えがあり、手元の学会発表録をひっくり返したところ2009年に行われていたことを確認しました(長田瑞恵「自称詞の違いと印象形成――対象の性別・年齢との関連」『日本教育心理学会総会発表論文集』51号、2009年、112頁。)。
なお、ヒトは2歳を超えたあたりから、自分のことを名前や愛称で自称するようになるとされています(たとえば自分で自分のことを「山田」と呼ぶ、など)。しかし、自我の成長にともない、おおよそ3歳くらいで自分のことを名前で自称することをやめ、一人称代名詞(たとえば、自我の成長にともない、自分のことを「ぼく」「あたし」と呼ぶようになる、など)に移行するのが一般的とされています(長田先生の研究で言えば、長田瑞恵「幼児における自称詞の使用――他者視点獲得との関連」『日本教育心理学会総会発表論文集』52号、2010年、565頁。若干古いがよく知られた研究で言えば、アンリ・ワロン(Henri Wallon)の1956年の研究、など。)。
念のため確認ですが、山田氏は「「自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だ」といった内容を述べた学術的議論は承知しておりません」とのことですが、では「学術的」なものに限定せずともかまいませんので「「自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だ」といった」主張や慣習を、今まで一度も知らずに過ごしてきたのですか? それとも、そういう主張があるのは知っているが学術的な議論があるかどうかまでは知らない、ということなんでしょうか? 学術的議論の有無について承知していないというのはわかりますが、そのような慣習の存在すら今まで一度も知らなかったとは考えにくいですよね。まさか今まで一度も誰からも指摘されたことがなかったとでもいうのでしょうか……。--114.48.149.241 2012年11月6日 (火) 17:25 (UTC)[返信]
コメントまず、興味深い報告をご紹介いただいたことを感謝いたします。長田氏の一連の研究のうち、「幼児における自称詞の使用」などは幼児を対象としたものですし、実際の調査において、山田の場合のように姓を自称とするケースは考察に入っていないように見受けられました。また、女子大学生を対象としている調査に基づいた「自称詞の違いと印象形成」でも、姓を自称とするケースは考察に入っていません。また、いずれにおいても「「自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だ」といった内容」は見当たらなかったように思います。当該記述が、山田が拝見したここでリンクを張っている報告の中に含まれておりましたら、具体的にどの箇所かをご教示ください。
「「「自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だ」といった」主張や慣習を、今まで一度も知らずに過ごしてきたのですか?」とお尋ねですが、正直に申し上げて、そのような主張は寡聞にして承知しておりません。一般書でも結構ですので、そのような記述の例をお示しいただければ勉強になりますので、例示をよろしくお願いいたします。
山田は、話し言葉で姓を自称に用いることはありません。また、論文その他の記事を書く場合にも、姓を自称として用いることはほとんどないはずです(あっても稀であるはずです)。山田が自称として姓を用いるのは、既に説明しているように、おもに掲示板などのやり取りで、書き言葉のコメントが輻輳する場合です。そうした局面で、「自分の名前を一人称として使えば、周囲に不快の念を与えるのが一般的な常識だ」といったお叱りを受けた覚えはありません。もちろん、あっても忘れているだけの可能性もありますが、とりあえず記憶にはありません(2000年前後の2ちゃんねるや、その後の東京経済大学関係の掲示板を精査していただければ何か出てくるかもしれませんが)。--山田晴通会話2012年11月9日 (金) 11:53 (UTC)[返信]
コメント まず、「同様の研究」とのお断りをしておりますので、山田氏のような特殊な事例には当てはまらない箇所がありましたらご容赦ください。また、山田氏より「山田は、話し言葉で姓を自称に用いることはありません」との後出しで釈明がなされましたが、それなら話はわかります、安心しました。日常生活における話し言葉でも山田氏はご自分のことを「山田は山田は……」とおっしゃっているのかと困惑しておりました。
さて、山田氏は「姓を自称とするケースは考察に入っていないように見受けられました」とのことですが、山田氏にとって姓は名前ではないということでしょうか。本研究は、4歳児と成人の一人称が「ぼく」「わたし」、あるいは「おれ」「あたし」、あるいは名前そのもの、といった場合に、それぞれ相手に与える印象の差異について研究したものですが。山田氏もPDFをご提示なされていますので、学会発表をお聞きになったということでしょうか。こちらは講演録ですのでレジメ的な内容となっておりますが、実際の発表内容で成人が名前を自称した場合のBig Five性格特徴がどのようなものであったか、お聞きになっているはずですよね。また、山田氏は「幼児を対象としたものです」などと不可解な主張をなさっていますが、これはどういうことでしょうか。ヒトは2歳を超えたあたりから、自分のことを名前や愛称で自称するようになるとされています(たとえば自分で自分のことを「山田」「晴通」「やまちゃん」「はるちゃん」「やまりん」「はるりん」「やまっち」「はるっち」と呼ぶ、など)が、おおよそ3歳くらいで自分のことを名前で自称することをやめ、一人称代名詞に移行する(たとえば、自我の成長にともない、自分のことを「ぼく」「あたし」「おれ」「わたし」と呼ぶようになる、など)に移行するのが一般的とされています。3歳くらいで一人称代名詞に移行するのが一般的なのですから、大の大人が自分で自分のことを名前や愛称で自称することは通常ありませんので、調査対象に含まれないのは当たり前かと存じます。また、一般書の書名を挙げろとのご要求、了解いたしました。明日以降図書館等で確認いたします。
老婆心ながら、山田氏は大学の実名を挙げてしまっていますが、これは大丈夫なのでしょうか。もちろん、山田氏はあくまでウィキペディア上のアカウントとしての山田氏であり、お名前の挙がっている大学に実在する山田氏と同一人物かどうかは別の話ですから、そんなことまで私が気にしなくてもいいのかもしれませんが。--114.48.183.237 2012年11月11日 (日) 07:10 (UTC)[返信]
いろいろ思い込みをされているようで、むしろこちらが「困惑」しております。もちろん、山田は専門は違いますし、長田氏の一連の報文は、そちらが言及されてから検索してヒットしたものを読んだということに過ぎません。学会発表を聞いたことはありません。むしろ「お聞きになっているはずですよね」という判断が何を根拠にされているのか、理解に苦しみます。
なお、「利用者:山田晴通」に明記しているように、この利用者:山田晴通が、東京経済大学教員の山田晴通であることは、東京経済大学のドメインにある研究室のサイト内の記述で明らかにしています。--山田晴通会話2012年11月11日 (日) 16:12 (UTC)[返信]
コメント 図書館の書籍をリストアップしておりますので、出典一覧はしばらくお待ちください。さて、「学会発表を聞いたことはありません」とのこと、了解しました。PDFを挙げてらっしゃったので、てっきり山田氏も学会に出席なさっていて講演録を入手しており、それをPDF化したのかと思ってしまいました。失礼しました。さて、最後の老婆心ながらの点についても、わざわざご回答いただきありがとうございます。ただ、若干私の意図するところが伝わっていなかったようで失礼しました。私が危惧しておりますのは、大学の実名を挙げてしまっていますが、大学当局にとって問題が生じないのかを危惧していたのですが。--114.48.22.176 2012年11月15日 (木) 23:14 (UTC)[返信]

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コメント 「私が危惧しておりますのは、大学の実名を挙げてしまっていますが、大学当局にとって問題が生じないのかを危惧していたのですが。」とのことですが、どのような「問題」の発生を「危惧」されておいでなのでしょうか?
もし、山田が自らのアイデンティティを明らかにしてネット上で活動することが大学に迷惑をかけるような事態があれば、何らかの注意なり、処分が所属機関である大学からあるでしょう。それだけのことです。--山田晴通会話2012年11月16日 (金) 00:50 (UTC)[返信]
コメントIP氏と山田で認識が異なっているのは、翻訳記事の場合であるように思われます。山田は、翻訳記事においては、基本的には原記事にない典拠の追加は好ましくないと考えています(中略)翻訳者が勝手にこれが典拠になるだろうと判断したリンクを加筆するのは、少なくとも初版においては好ましくないと考えています(中略)最も好ましいのは、初版でいったん原記事のままの典拠,リンクで訳した上で、改めて、より適切な典拠、リンクを加筆する(必要な場合には無効なものを除去する)編集をするという手順を踏む事かと思います」とのことですが、そんなことは当たり前です。要約欄に他言語版からの翻訳と明記して投稿するなら、初版はまず翻訳したままの記事を投稿し、第2版以降で出典を追記するなどメンテするべきではないでしょう。要約欄に他言語版からの翻訳と明記しておきながら、初版で勝手に出典を追加されてしまうと、元記事にあった出典なのか翻訳者が追加した出典なのか判断がつかなくなってしまいます。記事の分割などの手順と若干似ているかもしれませんね。さて、私は当初より「いったん翻訳した記事を投稿後、山田氏がご自分で出典を捜し、それを追記すべきでしょう」「持ち込んだうえで、きちんと出典を附与するなり、百科事典にふさわしい記述にするなり、メンテすべき」と申し上げております。初版からいきなり出典を追加せよなどと主張したことは一度もなく、まず翻訳記事を投稿しそのうえで出典の追記などメンテせよ、と申し上げており、その点は山田氏の主張と齟齬はないと思うのですが。もし私が初版からいきなり出典を追加せよなどと主張したというのであれば、差分URLをご提示ください。
また、「「山田氏は一貫して出典についての指摘には何の回答もなさないばかりか、記事本文に対しても初版以降、なにひとつ出典を提示しておりません。」とのご指摘ですが(中略)「一貫して」と仰るのは、日本語の表現としていささか不自然」といっていますが、これほど指摘されても、長々と釈明した挙句この期に及んでまだ出典の提示を拒んでいるわけですから、「一貫して出典についての指摘には何の回答もなさない」との表現に何ら問題はないと思います。「出典を示す努力を放棄しているつもりはありませんが、やろうとしても時間はかかります」とのことですが、通例なら手元に出典を置いて確認したうえで投稿するのが筋ではないでしょうか。何一つ出典を確認していないのに記事を投稿して、他者から出典がないと指摘されると「やろうとしても時間はかかります」などと開き直られても困ります。山田氏の編集履歴を拝見する限り、それなりに長い活動歴をお持ちのようですし、出典が必要なことくらい十分にご存知かと思うのですが。--114.48.212.31 2012年11月7日 (水) 03:15 (UTC)[返信]
IP氏と山田では、作業に関する時間感覚が大きく異なっていると思います。翻訳作業は、段階的に進めることもありますし、翻訳完了後の加筆も同様です。緊急案件や、雪玉条項が適用されるべき状況でない限り、不適切な記述であっても、加筆で改善される余地がある場合は、最短でも1週間程度は時間的猶予があるべきだというのが山田の理解ですし、現に、ウィキペディアでは合意形成の確認にはそれくらいの時間を使います。あまり性急になられても、ご期待には添いかねることを十分にご理解ください。また、山田が迅速に対応できていないことにお叱りをいただいていますが、どうか「Wikipedia:善意にとる」ことをお忘れなく、引き続きご指導いただけますようお願いいたします。--山田晴通会話2012年11月9日 (金) 11:53 (UTC)[返信]
コメント まず、山田氏は詭弁を弄してばかりですが、そのような不誠実な態度はおやめいただきたいと思います。「翻訳作業は、段階的に進めることもあります(中略)加筆で改善される余地がある場合は、最短でも1週間程度は時間的猶予があるべき」などとおっしゃっていますが、それは翻訳する作業や出典未提示の記述に出典をつける作業に時間がかかるということですよね。それは十分に理解できます。しかし、「翻訳時、山田氏が特筆性があると判断した根拠は何ですか?」という質問への回答に、そこまで時間が必要とは到底思えません。
山田氏がこの記事の初版を投稿したのは、2012年11月3日 (土) 23:42 (UTC)です。このとき、山田氏は何をもってこの記事に特筆性があると判断したのか、その根拠をお伺いしているのですが、なぜそんなに回答にお時間がかかるのでしょうか。山田氏に対して翻訳時に特筆性あると判断した根拠を質問してから、既にかなりの時間が経過しています。その間、山田氏は本ノートに再三書き込んでいますので、少なくともこの質問を見落としている可能性はないでしょう。2012年11月3日 (土) 23:42 (UTC)時点でなぜ特筆性ありと判断したのか、根拠を尋ねているだけですから、即答できるはずの質問ですよね。しかし、山田氏は、再三にわたり長々と言い訳を繰り返した挙句に、典拠の提示を拒み続けています。なぜ山田氏は翻訳時に特筆性ありとご自身が判断した根拠を、即座に回答することができないのでしょうか。仮に図書館に書籍を返却するなどしたために典拠が今は手元にないというなら、書名を回答するなり経緯を説明するなりできるはずですが、それすらしていません。なぜ時間がかかるのか、論理的にご説明願えるでしょうか。--114.48.183.237 2012年11月11日 (日) 07:10 (UTC)[返信]
自分の書き込みのどのような部分が「詭弁」と誤解されているのかは気になります。意図的に詭弁を弄するつもりはありませんし、そのように誤解される記述をしているのであれば誤解を解きたいと考えますので、ぜひ、具体的にご指摘ください。詭弁を弄することは、職業的研究者にとって倫理上許されることではないと山田は考えています。もし、自分が詭弁家であるかのように誤解されているのであるとすれば、それはぜひとも解消しなければいけないと思います。
なお、なぜこの記事を訳出したのかについては、このノートの冒頭に記してある通りですし、一定の特筆性があることは韓国語版に記事が存在することから容易に類推できることかと思います。既に「IP氏と山田では、作業に関する時間感覚が大きく異なっていると思います。」と申し上げておりますが、いずれにせよ、IP氏がいろいろ苛立たれている理由は、それ以上でも以下でもないと思います。--山田晴通会話2012年11月11日 (日) 16:12 (UTC)[返信]
コメント自分の書き込みのどのような部分が「詭弁」と誤解されているのかは気になります」とのことですが、一例として、相手の質問への返答を頑なに拒むとともに無関係な話に逸らそうとする点が挙げられると思います。たとえば、上のコメントを例にとりますと、「なぜ時間がかかるのか、論理的にご説明願えるでしょうか」と質問しています。しかし、山田氏からの返答は、「自分の書き込みのどのような部分が……」からはじまり、全く無関係の話題に終始したうえ、質問に対する回答はゼロです。
また、その件とは別に、このノートでは再三「2012年11月3日 (土) 23:42‎の初版投稿時、山田氏は何を根拠に特筆性ありと判断したのか?」と聞かれています。山田氏はこのノートに何度も書き込みをしていますが、それに対する回答は全く行っていませんし、それとは無関係の釈明に終始しています。話をごまかそうと必死なのかもしれませんが、無関係な話題で話をごまかそうとなさるのは「詭弁」といってよいかとおもいます。2012年11月3日 (土) 23:42‎時点での根拠を聞かれているわけですから、改めて資料を調べる必要はないはずです。即答可能ですよね。なぜ回答できないのでしょうか。手元の資料が一時的になくページ数は挙げられなかったとしても、せめて書名くらいは挙げられそうですよね。唯一ウィキペディア上の記事「李完用」を参考にしたことが明かされましたが、誰でも編集可能なウィキペディア上の記事は典拠にならないことは山田氏なら先刻ご承知かと思います。まさかいまさら「特筆性を判断した根拠はウィキペディアのみ」などとはよもや言い出さないとは思いますし、なぜ根拠が明かせないのかひじょうに不可解です。典拠とした書名などを具体的に挙げていただけないでしょうか。--114.48.22.176 2012年11月15日 (木) 23:14 (UTC)[返信]

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  • コメント 山田の「詭弁」の例として「相手の質問への返答を頑なに拒むとともに無関係な話に逸らそうとする点」を挙げられ、直上のコメントで「なぜ時間がかかるのか、論理的にご説明願えるでしょうか」というご質問に山田が「全く無関係の話題に終始したうえ、質問に対する回答はゼロです」と述べられています。これは事実に反します。既に述べているように、IP氏と山田では「IP氏と山田では、作業に関する時間感覚が大きく異なっていると思います。」書き込みへの応答に「時間がかかっている」とは考えていません。また、ウィキペディアにおける一般的な時間感覚から、自分が大きく逸脱しているという認識はありません。
  • 「このノートでは再三「2012年11月3日 (土) 23:42‎の初版投稿時、山田氏は何を根拠に特筆性ありと判断したのか?」と聞かれています。山田氏はこのノートに何度も書き込みをしていますが、それに対する回答は全く行っていません」と仰っていますが、既に上でも述べているように、「なぜこの記事を訳出したのかについては、このノートの冒頭に記してある通りですし、一定の特筆性があることは韓国語版に記事が存在することから容易に類推できることかと思います。」というのが山田の判断です。これが適切であるか否かについてはIP氏にいろいろお考えもあるのかもしれませんが、山田はご質問に回答しております。もし、IP氏がこの記事に特筆性がないとお考えであれば、特筆性タグを貼る、特筆性を理由に削除依頼を提起されるといった対応をとられればよいだけのことです。
  • にもかかわらず、「それとは無関係の釈明に終始しています。話をごまかそうと必死なのかもしれませんが、無関係な話題で話をごまかそうとなさる...」というのは、IP氏が事実を歪曲されようとしているように思われます。
  • また、「唯一ウィキペディア上の記事「李完用」を参考にしたことが明かされましたが...」というのも歪曲です。山田は記事の翻訳に際して、この人物について確認するために「李完用」を閲覧していますが、この記事を典拠として記事を作成したわけではありません。誤訳をしたのはあくまでも山田の語学力の欠如によることであり、既に他の方々に訂正されています。また、記事への出典づけも行なっております。どうか、事実関係をしっかり確認した上でコメントを述べてください。--山田晴通会話2012年11月16日 (金) 00:50 (UTC)[返信]
コメント ようやく「特筆性があると判断した根拠は何ですか?」という質問に対する回答らしきものが返されました。その点については感謝いたしますが、相変わらず話をごまかそうとする態度は相変わらずのため、対話姿勢に問題があると思います。
  • 「このノートでは再三「2012年11月3日 (土) 23:42‎の初版投稿時、山田氏は何を根拠に特筆性ありと判断したのか?」と聞かれています。山田氏はこのノートに何度も書き込みをしていますが、それに対する回答は全く行っていません」と仰っていますが、既に上でも述べているように、「なぜこの記事を訳出したのかについては、このノートの冒頭に記してある通りですし、一定の特筆性があることは韓国語版に記事が存在することから容易に類推できることかと思います。」というのが山田の判断です」との発言について
    ⇒ 私は「特筆性があると判断した根拠は何ですか?」と質問しています。山田氏は「なぜこの記事を訳出したのかについては、このノートの冒頭に記してある通り」などと反論していますが、ノート冒頭の「訳出にあたって」セクションに「特筆性があると判断した根拠」についての説明などあるでしょうか。この記事を執筆しようと思った動機については説明されていますが、「特筆性があると判断した根拠」については触れられておらず、脈絡のない反論としか思えません。
    【質問①】 「訳出にあたって」セクションに、「特筆性があると判断した根拠」について説明されている個所がありますか? YesかNoでお答えください。
    【質問①-①】 (①がYesの場合)「訳出にあたって」セクションには、記事を作成した理由について「韓国人にとっての歴史上の重要人物のリストとして興味深いのではないかと考え、訳出してみました」と書かれています。山田氏が記事執筆に至った「動機」はたしかに説明されていますが、「特筆性があると判断した根拠」については何も説明されていません。「訳出にあたって」セクション内のどこで「特筆性があると判断した根拠」について説明しているのか、ご説明願います(まさか「『興味深いのではないかと考え』たのだから、それが特筆性があると判断した根拠だ」などと言い出すわけではないでしょうね? 「山田氏が個人的に興味深いと感じた」イコール「特筆性がある」というのは、山田氏中心主義にもほどがあります)
    【質問①-②】 (①がNoの場合)山田氏が「「このノートでは再三「2012年11月3日 (土) 23:42‎の初版投稿時、山田氏は何を根拠に特筆性ありと判断したのか?」と聞かれています。山田氏はこのノートに何度も書き込みをしていますが、それに対する回答は全く行っていません」と仰っていますが、既に上でも述べているように、「なぜこの記事を訳出したのかについては、このノートの冒頭に記してある通りです」などと反論した理由はなんですか。今話題にしているのは「特筆性があると判断した根拠は何ですか?」という質問についてです。「訳出にあたって」セクションに、「特筆性があると判断した根拠」について記述がないのであれば、全く関係がありません。あたかも「このノートの冒頭に」特筆性があると判断した根拠が示されているかのような書き方をなさっていますが、これは閲覧者のミスリードを目的にしているのでしょうか?
  • 山田はご質問に回答しております」との発言について
    ⇒ まず、事実と異なる発言をなさるのはおやめいただけないでしょうか。私の「特筆性があると判断した根拠は何ですか?」との質問に対して、山田氏は何らの回答をなさず、話をごまかし続けていたのは事実でしょう。「山田氏はこの記事に特筆性があると判断したから、投稿したのですよね? しかし、特筆性があることを示すような出典はなにも提示されていません。特筆性があると判断したのなら、あなたがそう判断した裏付けとなる出典を提示してください」という質問をしたのは2012年11月5日 (月) 03:04 (UTC)です。それに対して「韓国語版に記事が存在したことを根拠に、特筆性があると判断しました」(大意)という回答がなされたのは2012年11月16日 (金) 00:50 (UTC)になってからです。その間、山田氏はこのノートに8回も書き込んでいますが、この質問に対する回答は一切しておらず、話をごまかして回答を忌避していたのは疑いのない事実です。
    【質問②】 なぜこれほどまでに回答が遅れたのかを、正直に説明してください。「IP氏と山田では、作業に関する時間感覚が大きく異なっていると思います」との回答では理由になっておらず、もう少し詳細にご回答ください。時間の感覚が違うと、なぜ2012年11月16日 (金) 00:50 (UTC)になるまで回答できないのでしょうか。
    【質問②-①】 山田氏は 2012年11月5日 (月) 14:33‎ (UTC) にこのノートに書き込んでいますが、そのときなぜ「韓国語版に記事が存在したことだけを根拠に、特筆性があると判断しました。それ以外の根拠はありません」と説明できなかったのですか? 合理的な説明をお願いします。
    【質問②-②】 山田氏は 2012年11月5日 (月) 14:34‎‎ (UTC) にこのノートに書き込んでいますが、そのときなぜ「韓国語版に記事が存在したことだけを根拠に、特筆性があると判断しました。それ以外の根拠はありません」と説明できなかったのですか? 合理的な説明をお願いします。
    【質問②-③】 山田氏は 2012年11月6日 (火) 13:00‎‎‎ (UTC) にこのノートに書き込んでいますが、そのときなぜ「韓国語版に記事が存在したことだけを根拠に、特筆性があると判断しました。それ以外の根拠はありません」と説明できなかったのですか? 合理的な説明をお願いします。
    【質問②-④】 山田氏は 2012年11月6日 (火) 13:11‎ (UTC) にこのノートに書き込んでいますが、そのときなぜ「韓国語版に記事が存在したことだけを根拠に、特筆性があると判断しました。それ以外の根拠はありません」と説明できなかったのですか? 合理的な説明をお願いします。
    【質問②-⑤】 山田氏は 2012年11月6日 (火) 13:18‎‎ (UTC) にこのノートに書き込んでいますが、そのときなぜ「韓国語版に記事が存在したことだけを根拠に、特筆性があると判断しました。それ以外の根拠はありません」と説明できなかったのですか? 合理的な説明をお願いします。
    【質問②-⑥】 山田氏は 2012年11月9日 (金) 11:05‎‎‎ (UTC) にこのノートに書き込んでいますが、そのときなぜ「韓国語版に記事が存在したことだけを根拠に、特筆性があると判断しました。それ以外の根拠はありません」と説明できなかったのですか? 合理的な説明をお願いします。
    【質問②-⑦】 山田氏は 2012年11月9日 (金) 11:53‎‎‎‎ (UTC) にこのノートに書き込んでいますが、そのときなぜ「韓国語版に記事が存在したことだけを根拠に、特筆性があると判断しました。それ以外の根拠はありません」と説明できなかったのですか? 合理的な説明をお願いします。
    【質問②-⑧】 山田氏は 2012年11月11日 (日) 16:12‎ (UTC) にこのノートに書き込んでいますが、そのときなぜ「韓国語版に記事が存在したことだけを根拠に、特筆性があると判断しました。それ以外の根拠はありません」と説明できなかったのですか? 合理的な説明をお願いします。
    【質問③】 山田氏は「一定の特筆性があることは韓国語版に記事が存在することから容易に類推できることかと思います」と述べていますが、ということは、この記事の初版を投稿した時点では「他言語版に記事が存在したことだけを根拠に特筆性があると判断した。それ以外には何の根拠もなかった」ということでよいですか?
  • 「唯一ウィキペディア上の記事「李完用」を参考にしたことが明かされましたが...」というのも歪曲です」との発言について
    ⇒ 山田氏はご自分で「李完用については、「대비=対比」を読み取れず文意をとれなかったところで、「李完用#評価」の記述に少なからず引っ張られて誤釈したものです」と説明なさっており、翻訳時に「ウィキペディア上の記事「李完用」を参考にした」というのは明らかです。また、それ以外に翻訳時に参考にしたものは全く当人が回答しなかったわけですから、このページの説明が「唯一」であることも間違いありません。「ウィキペディア上の記事「李完用」」以外に、翻訳時に参考にした書籍名やサイト名などは一つも挙げられていませんからこのように発言したまでです。それを「歪曲です」などと決めつけられるのは残念です。ただ、「ウィキペディア上の記事「李完用」」以外に翻訳時に参考にしたものは明かされていなかったわけですから、この件については質問するまでもなく、山田氏のごまかしであることは明らかです。
いずれにせよ、明らかに事実と異なる「山田はご質問に回答しております」との虚偽の発言は看過できないと思います。取り急ぎコメントさせていただきました。--114.48.172.41 2012年11月24日 (土) 04:39 (UTC)[返信]

山田氏の韓国に対する過度な配慮(?)について[編集]

Japanese Wikipediaは、「ウィキペディア日本語版」です。「ウィキペディア日本版」ではありません。これは、ウィキペディア日本語版があくまで「日本語で提供されるインターネット百科事典」であって、「日本人だけに提供されるインターネット百科事典」でもなければ「日本国民だけに提供されるインターネット百科事典」でもなければ「日本国内の事柄だけを対象とするインターネット百科事典」でもない、ということからみても明らかです。ウィキペディア日本語版はあくまで日本語で記事を提供することが大前提ですが、利用者は「日本語に興味を持って学習中のフランス人」かもしれませんし、「日本国籍を放棄してカナダに帰化したカナダ国民」かもしれませんし、「日本国外に居住する日本人」かもしれません。ですから、「JPOV」なんて概念があるわけで、記事本文中に「我が国は」なんて記述があったら、それが「日本は」に修正されることがよくあるわけです。English Wikipediaはあくまで「ウィキペディア英語版」であり、「ウィキペディアイギリス版」でもなければ「ウィキペディアアメリカ合衆国版」でもありません。特定の国ではなく特定の言語でサイトが分かれているわけです。

さて、山田氏はこのノートにおいて、Korean Wikipediaについて「韓国語版」などと発言しています。

もちろん、英語でいうところのいわゆる「Korea」について漢字表記する場合、大韓民国では「韓」を充てることが多いのに対し、朝鮮民主主義人民共和国では「朝鮮」を充てることが多いなど、両国で差異があることは理解しています。両国とも、要は自国の名称に含まれる字を充てるべきだと主張しているのでしょう。たとえば、大韓民国の場合、Korean Peninsulaは「韓半島」、Korean languageは「韓国語」、Democratic People's Republic of Koreaは「北韓」と表記します。それに対して、朝鮮民主主義人民共和国では、Korean Peninsulaは「朝鮮半島」、Korean languageは「朝鮮語」、Republic of Koreaは「南朝鮮」と表記します。しかし、ここはウィキペディア日本語版なのですから、大韓民国側の立場に立つ必要はありませんし、朝鮮民主主義人民共和国側の立場に立つ必要もありません。あくまで、日本語としての立場に立つべきです。日本語では、Republic of Koreaは「大韓民国」と書きますが「南朝鮮」と書くことはほとんどありませんし、Democratic People's Republic of Koreaは「朝鮮民主主義人民共和国」と書きますが「北韓」と書くことはほとんどありません。日本語では、当人の自称に沿った表記にしているようです。ただ、「Korea」という地域全体を指し示す場合、日本語では「朝鮮」という文字を使うのが一般的です。たとえば、Korean Peninsulaは「朝鮮半島」と書きますが「韓半島」と書くことはほとんどありません。同様に、Korean languageについても、Koreaという地域全体を指し示すため「朝鮮語」と表記されることが一般的でしょう。

山田氏には大韓民国の国家政府あるいは国民に対して、何か気を遣わねばならないような事情や理由があるのかもしれませんが、しかしここはウィキペディア日本語版のノートです。大韓民国側の立ち場に立ったり、過剰に配慮することは避けるべきかと思います。ですので、「ウィキペディア韓国語版」などと「韓国」に限定する必要性は全くなく、「ウィキペディア朝鮮語版」で何ら問題ないと思います。

なお、それ以外にも、山田氏はKorean languageを指して「韓国語」と発言しています。

いずれにせよ、山田氏の思想信条についてとやかくいうつもりはありません。ここではそのようなことを議論しても仕方がないでしょう。しかし、少なくともウィキぺディアにおいては、大韓民国を中心にした主義主張はおやめいただきたいと思います。あくまで日本語版ですので、日本語としての一般的な表記をないがしろにしてまで大韓民国側の主張に立脚した表記を導入する必要はありません。もし、あくまで大韓民国の見方や考え方を主張したいのであれば、それはご自分のウェブサイトでお願いいたします。--114.48.198.14 2012年11月24日 (土) 09:01 (UTC)[返信]