ジューン・クリスティ

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ジューン・クリスティ
at the Club Troubador, New York, 1947(撮影 ウイリアム・ゴッドリーブ)}
at the Club Troubador, New York, 1947(撮影 ウイリアム・ゴッドリーブ
基本情報
出生名 Shirley Luster
別名 June Christy, Sharon Leslie
出生 1925年11月20日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イリノイ州 スプリングフィールド
死没 1990年6月21日(満64歳没)
ジャンル ジャズ
職業 ヴォーカリスト
活動期間 1930年代 - 1960年代

ジューン・クリスティ(June Christy 1925年11月20日 - 1990年6月21日)は、アメリカの女性ジャズ歌手。

1950年代を代表する白人ジャズボーカリストで、アニタ・オデイクリス・コナーと並び、スタン・ケントン・オーケストラが輩出した女性歌手(「ケントン・ガールズ」と言われる)中でも傑出した存在である。ウエストコースト・ジャズの基調の一つであった「クール」を体現し、スイングのセンスとコントローラブルなテクニックを兼ね備える洗練された歌唱で、モダン・ジャズボーカルにおける後続の範となった。アルバムの代表作は「サムシング・クール」 Something Cool (1955年 キャピトル・レコード作品)。

生涯と作品[編集]

本名はシャーリー・ラスター Shirley Luster 。1925年、イリノイ州スプリングフィールドに出生。両親の不仲のため恵まれない幼年時代を過ごす。少女時代から歌い始め、13歳の時点で早くもローカル・ビッグバンドの歌手として歌うようになった。

1940年代初頭にシカゴに移り住み、本格的に音楽活動に取り組むようになってからも、シャロン・レズリーの芸名で長い下積みを続けた。第二次世界大戦中の1943年からは、モダン・ジャズ的指向の強いビッグバンドの一つであったボイド・レーバーン楽団に所属したが、巡業先で猩紅熱を患って一時隔離されるというアクシデントに遭い、スケジュールの詰まっていたバンドから取り残される形で退団する羽目になった。その後、ベニー・ストロングのバンドでも歌ったが、無数のバンド・シンガーがひしめいていたビッグ・バンド全盛時代の最中だけに、彼女は一向に芽が出なかった。

スタン・ケントン楽団時代[編集]

1947-48年頃 ウイリアム・ゴッドリーブ撮影

1945年、シャーリー・ラスターはオーディションを受け、ピアニストのスタン・ケントン(Stan Kenton 1912-1979)が率いるビッグバンドに迎えられた。「ジューン・クリスティ」の芸名を名乗るようになったのは、このときである。名付け親はケントンだった。

二枚目のピアニストであるスタン・ケントンが1940年に結成したこのバンドは、当初単なるダンス・バンドとしてスタートしたが、モダンなスタイルを大胆に取り入れた先鋭性で注目され、人気を得た。1940年代後半には、クラリネット奏者ウディ・ハーマンのビッグバンドと並び称せられ、最先端のモダン・ジャズ・ビッグバンドとして第一級の存在であった。この2大ビッグ・バンドから巣立ったクール派、ウエストコースト派の白人ジャズ・ミュージシャンは非常に多い。

前任者のアニタ・オデイが「自分がジューンをケントンに紹介した」と証言しているが、ジューン自身は「アニタの退団を知り、ケントン楽団に自力で売り込みを行った。アニタには世話にはなっていない」とのちに語っている。

ケントン楽団でのジューンはスインギーな歌唱で、ミリオンセラーとなった「タンピコ」 Tampico (1945)などのポピュラーなヒットをとばす一方、ケントンの前衛指向による現代音楽風のテクニカルなナンバーにも習熟し、幅広い歌唱センスを身に着けた。当時の歌唱は、ケントン楽団が専属だったキャピトル・レーベルからの正規版の他、RCAの放送用録音などにも多く残されている。

この間、ケントン楽団の同僚であるテナー・サキソフォン奏者のボブ・クーパー(Bob Cooper 1925-1993)と1946年に結婚し、以後終生を共にした。

ケントン楽団には、ダリウス・ミヨーに師事した進歩的な作編曲家でもあったトランペット奏者ピート・ルゴロ(Pete Rugolo 1915-2011)が在籍していた。彼をはじめ、ケントン楽団時代に培われた西海岸のジャズ・ミュージシャンたちとの人脈は、ソロ活動に移ってからも彼女を助けることになった。

バンドリーダー職の過労で心身ともに限界にあったスタン・ケントンは、1949年、ビッグバンドを一時解散して療養のため南米に去った。これを機に、ジューンと夫ボブ・クーパーはソロ活動を行ったが、ケントンが1950年にバンドを再結成すると復帰した。

ソロ活動時代[編集]

1951年、ジューンはケントン楽団を退団して本格的なソロ活動に入った。ジューンの強い推薦によりケントン楽団の後任歌手となったのは、当時クロード・ソーンヒル楽団に属していたクリス・コナーで、彼女は後に実力でジューンをも凌ぐ存在へと成長する。

ジューンはソロ活動当初はポップ路線を採ったが一向にヒットしなかったことから、ピート・ルゴロの支援により、ハイブラウなジャズ・ボーカルに路線を転じて成功を収めた。

Something cool[編集]

キャピトル・レコードでのファースト・ソロ・アルバムとなった「Something Cool」(1953年~1955年録音)は、タイトル曲「Something cool」や、スタンダードナンバー「朝日のようにさわやかに」「The night we called it a day」などの歌唱を収める。バックを勤めたのはウエストコースト系の一流ミュージシャンを集めたビッグバンドで、指揮・編曲はピート・ルゴロによる。

「Something cool」という曲は、作詞作曲もこなす才人のピアニスト、ビル・バーンズ(William "Billy" Barnes 1927-2012)が、1953年にショーの挿入曲として作ったバラードである。ジューンはこの新曲を知って感銘を受け、「とうていヒットするような歌ではないと思うが、ぜひ録音したい」と切望、やはり曲に惚れ込んだルゴロの後押しもあって録音が実現した。

1953年12月27日に録音された「Something cool」は、まず1954年にシングル発売、同年に他の録音と合わせてアルバム化され10インチLP盤で発売された。次いで1955年には12インチ盤に改められたが、このアルバムは1956年までに9万3,000枚を売り上げ、当時のジャズ・アルバムとしては異例のヒットとなった。

アルバム「Something cool」はのち1960年に、ルゴロの指揮でほぼ同一の編曲を用いて同一プログラムでステレオ盤録音が再製作されている。モノラル録音時に比べ、ジューンの喉の衰えにより、歌唱のコンディションが若干損なわれている傾向がある。LPレコードではモノラルが「ジューンが目を閉じた白黒ジャケット」、ステレオが「ジューンが目を開いたカラージャケット」とおおむね区別できるが、1960年のステレオ盤発売時点でもすでにカラー版ジャケットがモノラル盤に使われる錯綜がみられた。1991年以降の再発盤CDは曲目やモノラル・ステレオ録音の選択によって様々なバージョンがあり、LPでの組み合わせが更に混乱しているケースも多数見られる。

その後[編集]

「サムシング・クール」以来、ジューンは1950年代を代表する白人女性ソロシンガーの一人として人気を博した。キャピトルでは他にも、「 Misty Miss Christy 」(1956年録音)、「 June's got rhythm 」(1957年録音)、「Ballad For Night People」(1960年録音)など、多くの優れたアルバムを製作している。夫クーパーの編曲になるスモール・コンボとの共演作や、ギタリストのアル・ヴィオラとの共演作もあるが、ピート・ルゴロ・オーケストラ共演作の評価は特に高く、それはキャピトル時代の合計18枚のアルバムのうち、実に9枚がルゴロの編曲・指揮によるものだったことでも裏付けられている。

キャピトルでのアルバムはおおむね商業的成功を収めたが、唯一不振だったのは1955年録音の「 Duet 」であった。これは旧知のスタン・ケントンのソロ・ピアノのみを伴った異色の作品である。

彼女のアルバムでは、写真・イラストの違いを問わず、爽やかな微笑を浮かべた金髪童顔のポートレートがしばしば用いられた。だがその清楚な容姿に似合わず非常な酒豪で、男性相手に延々飲んでも決してダウンしなかったと言われ、ケントン楽団時代に彼女と呑み比べをして潰れなかった同僚は、サックス奏者のアート・ペッパー一人だった、という逸話がある。そのため、1950年代後期以降はアルコール中毒に陥り、歌手の命である喉を荒らして、歌唱力を大きく損なうことになった。

1960年代中葉に第一線から退き、引退生活に入った。のち、1977年に日本のレコード会社の要請でアルバムを録音したが、歌唱には既に往年の精彩はなかった。

長年の飲酒に起因する腎臓病により、1990年6月21日(奇しくも6月=Juneであった)にカリフォルニア州シャーマン・オークスで死去した。