サイード・ビン・タイムール

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サイード・ビン・タイムール
قابوس بن سعيد آل سعيد
オマーン国王
スルターン・サイード・ビン・タイムール(左)と英軍大佐デイヴィッド・スマイリー英語版(右)、1958年撮影。
在位 1932年2月10日 - 1970年7月23日

全名 سعيد بن تيمور آل سعيد
サイード・ビン・タイムール・アール=サイード
出生 1910年8月13日
マスカット・オマーンサラーラ
死去 (1972-10-19) 1972年10月19日(62歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ロンドン
埋葬 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ウォキングブルックウッド墓地英語版
オマーンの旗 オマーン 王立墓地
配偶者 Sheikha Fatima bint Ali al-Mashani
  マズーン・アル・マシャニーアラビア語版Mazoon al-Mashani[1]
子女 カーブース・ビン・サイード
家名 ブーサイード家
父親 タイムール・ビン・ファイサル
母親 Sheikha Fatima bint 'Ali Al-Sa'id
宗教 イスラム教イバード派[1]
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サイード・ビン・タイムール(Said bin Taimur、アラビア語: سعيد بن تيمور‎、 1910年8月13日1972年10月19日)は、マスカット・オマーンの第13代スルターンで、1932年2月10日に即位し、1970年7月23日クーデターにおいて息子のカーブース・ビン・サイードによって廃位とされた英語版

教育[編集]

サイード・ビン・タイムールは、1910年マスカットに生まれた[2]

11歳だった1922年から1927年にかけて、かつての父と同様に[2]イギリス領インド帝国ラージプーターナーアジュメールにあるメイヨー・カレッジ英語版に学び、英語ウルドゥー語を修得した。1927年5月にマスカットに帰国した際には、さらに勉強を続けるためベイルートへ留学することが検討された。しかし、父スルターン・タイムール・ビン・ファイサルは、ベイルートに送れば、息子がキリスト教に感化されるのではないかと恐れた[3]

サイードの父は、息子が西方世界の諸々のやり方を学び、英語を話すことに強く反対した。サイードが幼かった頃、彼が、弟ナディルとともに、英語の教材を持っているのを見た父は、本をすべて焼き捨てるよう命じた。サイードをベイルートへ送る代わりに、父は彼をバグダッドへ送り、アラビア文学と歴史を1年間[3]、ないし、2年間学ばせた[2]

初期の政治経歴と即位[編集]

バグダッドで1年間を過ごした後、帰国したサイードは、すぐさまオマーンの政府に入った。1929年8月、彼は閣僚評議会の代表となった。スルタンであった父タイムール・ビン・ファイサルは、形式上は独立していたもののイギリスの実質的な支配下に置かれていた国情に統治者としての情熱を失い、しばしば国を離れてインドで過ごすなど、オマーン国政における無能ぶりは明らかで、新たな指導者を待望する状況が生じていた[4]。父王は1931年11月17日付でイギリスの湾岸代表部に書簡を送り、サイードを後継者に指名して自らの退位を宣言した[4]。イギリスはサイードに対して非常に好意的であり、1932年2月には、21歳であったサイードが、新たに第13代スルタンに即位した[4][5]。スルタンとなったサイードが継承した国は、イギリスとインドに対して大きな負債を抱えていた。イギリスから離れて自治を確保するためには、経済的自立を回復することが必要であった。このため、1933年以降、1970年に廃位されるまで、彼は国家予算を支配し続けた[5]

統治[編集]

外交[編集]

スルターンとなったサイードは、1937年日本にいた前スルターンの父を訪ねるため日本に赴いた[2]。また、サイードは、アメリカ合衆国との友好関係の維持に努め、アメリカ合衆国大統領だったフランクリン・ルーズベルトがサイードと彼の父を合衆国に招待したのに応じて、1938年に訪米し、サンフランシスコに上陸し、カリフォルニア州からワシントンD.C.までの陸路の旅に臨んだ。ホワイトハウス訪問に際して、ルーズベルトは自著2冊をサイードに贈った。サイードは連邦捜査局 (FBI) 本部が置かれていた司法省の建物英語版も見学し、マウントバーノンにあるジョージ・ワシントンの墓にリース(花輪)を捧げた[3]。帰路には、イギリス、フランスも訪れた[2]

第二次世界大戦が始まると、スルターンはすぐさまイギリスに協力し、ドファール県サラーラマスカットの間の数か所に、イギリス空軍の飛行場が建設された。これによってインドと連合国側を結ぶ補給経路が確保された[3]

内政[編集]

1937年、サイードは、それまでオマーン全土における石油利権を掌握していたイラク石油から、オマーンの石油利権を回復することに成功した。この時点では内陸部は諸部族が対立し、治安上の安定を欠いていたが、サイードは部族間抗争の収拾に乗り出し、1945年までに内陸部の掌握を成し遂げた[2]。その後、1955年1957年1959年にそれぞれ反乱が起きたが、サイードはいずれも鎮圧に成功した。

1958年には、実質的なイギリスによる支配から距離を置こうとしてか、王宮をサラーサに移した[2]。サイードは、国内自由通行の禁止、マスカット市の門の夜間閉鎖、ラマダン期間中の禁煙や歌舞音曲の禁止、女性の服装など、厳しい統制をおこなった[2]

1970年に退位を強いられる直前の時期には、サイードの反動的な諸政策のために、オマーンでは、5歳未満死亡率が25%程度と高かった[6]。また、トラコーマ性感染症が蔓延していた[6]。学校は3校しかなく、識字率は 5%、舗装された道路は10キロメートル (6 mi)しかなかった[7]

退位[編集]

カーブースは、イギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校に学び、1年間のイギリス陸軍歩兵としての西ドイツにおける勤務を経て1964年に帰国したが[1]、軟禁状態に置かれることとなった[8]

1970年7月23日サラーラのスルターン宮殿で、イギリスや叔父の支援を受けたカーブースは無血クーデターに成功し、父をイギリスへ追放した。追放されたサイードは最晩年の2年間をロンドンドーチェスター・ホテル英語版で過ごした[9]。サイードの亡骸は、当初はイングランドサリーウォキングブルックウッド墓地英語版に埋葬された。その後、遺骸は掘り起こされ、オマーンへ送られ、マスカットの王立墓地に改葬された[10]

栄誉[編集]

家系[編集]

サイード・ビン・タイムールの系譜
16. サイイド・サイード (=20, 28)
8. Turki bin Said
17. (エチオピアスルマ人英語版女性)
4. Faisal bin Turki
9. (エチオピアスルマ人英語版女性)
2. タイムール・ビン・ファイサル
20. サイイド・サイード (=16, 28)
10. Thuwaini bin Said (=24)
5. Aliya bint Thuwaini Al Said
22. Salim Ibn Sultan
11. Ghaliya bint Salim Al Busaidi
1. サイード・ビン・タイムール
24. Thuwaini bin Said (=10)
12. Salim bin Thuwaini
6. Ali bin Salim
26. Qais bin Azzan Al Busaidi
13. a daughter of Qais bin Azzan Al Busaidi
3. Fatima bint Ali Al Said
28. サイイド・サイード (=16, 20)
14. Barghash bin Said
7. Aliya bint Barghash Al Said
15. Moza bint Hamad Al Said

脚注[編集]

  1. ^ a b c Oman’s Sultan Qaboos, a negotiator in a volatile region”. Al Jazeera (2020年1月11日). 2020年11月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 遠藤晴男第七章 タイムール国王の神戸滞日とブサイナ王女 / スルタン・サイード・ビン・タイムール」『オマーン見聞録』展望社、2009年http://home.a00.itscom.net/oman/Omankenbunroku.htm 
  3. ^ a b c d Phillips, Wendell (1966). Unknown Oman. David McKay Company, Inc. New York. pp. 19 
  4. ^ a b c 遠藤晴男第六章 志賀重昂とタイムール国王 / スルタン・タイムール・ビン・ファイサル」『オマーン見聞録』展望社、2009年http://home.a00.itscom.net/oman/Omankenbunroku.htm 
  5. ^ a b Rabi, Uzi (2011). The Emergence of States in a Tribal Society: Oman Under Said Bin Taymur, 1932-1970. Apollo Books. pp. 48 
  6. ^ a b The Mortality and Health Transitions in Oman: Patterns and Processes
  7. ^ Cleveland, Bunton, William L, Martin (2013). A History of the Modern Middle East. Boulder, CO: Westview Press. pp. 409–410 
  8. ^ Jones, Ridout, Jeremy, Nicholas (2015). A History of Modern Oman. Cambridge University Press. pp. 146 
  9. ^ Gold, frankincense and mirth in deepest Arabia | Travel | The Observer
  10. ^ Tony Jeapes: SAS Secret War. Operation Storm in te Middle East. Grennhill Books/Stakpole Books, London/Pennsylvania 2005, ISBN 1-85367-567-9, page 29.
  11. ^ The India Office and Burma Office List: 1947. HM Stationery Office. (1947). pp. 96 

参考文献[編集]

  • Harris M. Lentz III, Heads of States and Governments: A Worldwide Encyclopedia of Over 2,300 Leaders, 1945 through 1992. McFarland & Company, Inc., 1994, p. 604. ISBN 0-89950-926-6.

外部リンク[編集]

爵位・家督
先代
タイムール・ビン・ファイサル
オマーンスルターン
1932年2月10日 – 1970年7月23日
次代
カーブース・ビン・サイード