カルロス・マリア・デ・ボルボーン (マドリード公)
カルロス・マリア・デ・ボルボン・イ・アウストリア=エステ(Carlos María de los Dolores Juan Isidro José Francisco Quirin Antonio Miguel Gabriel Rafael de Borbón y Austria-Este, 1848年3月30日 - 1909年7月18日)は、ブルボン家のスペイン王位およびフランス王位請求者。カルリスタの王としてはスペイン王カルロス7世、レジティミストのフランス王としてシャルル11世(Charles XI)を自称した。
カルロスは、モンティソン伯フアンと妻マリーア・ベアトリーチェ(モデナ公女)の長男としてライバッハ(現リュブリャナ)で生まれた。幼年時代に一家でロンドンへ移住し、そこで弟アルフォンソが生まれた。カルリスタの信望する保守主義からかけ離れた自由主義者の父カルロスは家族を捨て、子供たちは母親とモデナで暮らした。母方の伯父であるフランチェスコ5世が子供たちの教育のため心を砕き、子供たちの幼年時代に影響を与えた。
1867年2月、オーストリアでマルゲリータ・ディ・ボルボーネ=パルマ(パルマ公カルロ3世とルイーズ・ダルトワの娘)と結婚し、5子をもうけた。カルロスは第3次カルリスタ戦争を指揮した。1872年から1876年にかけて、彼はスペイン支配に影響を及ぼした。1893年、妻マルゲリータが亡くなった。再婚相手についてカルロスは母ベアトリーチェに相談した。実際に候補の2人と面会し、彼はフランス、旧ローアン公爵家のベルトを選んだ[1]。1894年4月28日、カルロスとベルトはプラハで結婚した。ベルトの高慢な性格のせいで、この結婚はカルリスタの間で非常に不人気であり、カルロスの一族とカルロス自身も2度目の結婚は悲惨だと感じていた[2]。
1909年、カルロスはヴァレーゼで亡くなった。棺はトリエステへ送られ、トリエステ大聖堂に埋葬された。
子女[編集]
最初の妻との間に1男4女の5人の子女をもうけた。
- ブランカ(1868年 - 1949年) - トスカーナ公子レオポルト・ザルヴァトールと結婚
- ハイメ(1870年 - 1931年)
- エルビラ(1871年 - 1929年)
- ベアトリス(1874年 - 1961年)
- アリシア(1876年 - 1975年)
脚注[編集]
参照[編集]
- Del Burgo, Jaime. Carlos VII y su tiempo: Leyenda y realidad. Pamplona: Gobierno de Navarra, 1994.
- "The Curé Santa Cruz and the Carlist War." Blackwood's Edinburgh Magazine (1873).
- "The Spanish Pretender: Who he is and What he has Been." New York Times (May 31, 1874).
- Don Carlos VII at the Classic Encyclopedia, based on the 1911 Edition of the Encyclopaedia Britannica
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