オーダンタプリ

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Odantapuri
1870年代にJoseph David Beglarによって撮影されたビハール州ビハール・シャリフの砦の古い廃墟の門の写真。砦はオーダンタプリ大学の一部であったと考えられている。
オーダンタプリの位置(インド内)
オーダンタプリ
インドにおける位置
オーダンタプリの位置(ビハール州内)
オーダンタプリ
オーダンタプリ (ビハール州)
所在地 インドビハール州
座標 北緯25度11分49秒 東経85度31分05秒 / 北緯25.197度 東経85.518度 / 25.197; 85.518座標: 北緯25度11分49秒 東経85度31分05秒 / 北緯25.197度 東経85.518度 / 25.197; 85.518
種類 Centre of learning
歴史
完成 8th–9th century CE
放棄 13th century CE
出来事 Destroyed by Muhammad bin Bakhtiyar Khalji in the late 12th-century

オーダンタプリオーダンタプラまたはウッダンダプラとも呼ばれる、Odantapuri)は、現在のインドビハール州ビハール・シャリフにあった著名な仏教大僧院(マハーヴィハーラ)である。

解説[編集]

8世紀パーラの統治者ゴーパーラ1世によって設立されたと考えられている。これはインドの大僧院の中でナーランダに次いで2番目に古いと考えられており、マガダにあった[1]

碑文の証拠はこの僧院がブッダガヤの金剛座主(ピティパティ)のような地元の仏教王によって支援されたことを示している[2]。この僧院(ヴィハーラ)は、1100年代後半にトルコ系イスラム教徒の侵略者であるムハンマド・バフティヤール・ハルジーがビハール州とその隣接地域を複数回襲撃した際に滅んだ[3]

位置と名称[編集]

1878年の報告でジョセフ・デイビッド・ベグラーはビハール市(ビハール・シャリフ)をオーダンタプリと特定した。この都市はかつてビハール・ダンディまたはダンド・ビハールと呼ばれていました。これはダンドプール・ビハールの略称である[4]

このダンドプール・ビハールは由来するウッダンダプラ・ヴィハーラが本来の呼称と予測される。なぜなら、背面にウッダンダプラの名前を記した奉納碑文が刻まれた、女神パールヴァティーの小さな真鍮像[5] [6]と台座の碑文[7]がビハール・シャリフで発見されたからである。

また、宋代の中国僧による旅行記に「烏嶺頭wū-lǐng-tóuあるいは烏巓頭wū-diān-tóu」と書かれているものもあり、[8][9]オーダンタプリと記述されることの多いチベット文献でも、11世紀の翻訳文献でウトランダプリ[10] と記述するものもある。

オーダンタプリとされるのは、チベットではウディヤーナがオギェン、オデヤンなどと訛るのと同じで、ウがオに音韻変化するからと予想される。現在、学者はウッダンダプラと認識する方が多いようだが、一般にはまだオーダンタプリと認識されることが多いようなので、ここでは以降オーダンタプリを用いる。

以上のような碑文と地元の伝統や文学的証拠に基づいて、ビハール・シャリフの現代の町はオーダンタプリの古代遺跡に建設されたと考えられている[11]

オーダンタプリの位置について、チャンドラ・ダスは、18世紀のモンゴル僧でインドを訪れたことのないスンパ・ケンポの記述によって「現代のベハルの町近くの丘の上に建てられた」と考えた[12]。しかし、20世紀初頭のチベット僧でインドを実見したゲンドゥン・チューペルは次のように述べている[13]。 「パトナからラージギールまでの鉄道路線に、ビハール・シャリフという駅があります。駅に着いて西を見ると低い塚が見えます。ここにオーダンタプリ僧院の遺跡があると言われます。」[14]

これはおそらく、巨大な塚そのものであるビハール・シャリフのガドパル[15]という地域への言及であると考えられる。パーラ時代の多数の彫刻といくつかの部分的なレンガ構造がこの墳丘から時々報告されている[16]

ガドパルの周囲には、広い堀に囲まれた古代の砦の遺跡[note 1]があり、ブキャナン・ハミルトンが1812年にこの場所を訪れるまでその姿が見えていた[17]。ハミルトンによると、マガ・ラジャ(マガダ王)によって建てられ、12世紀にイスラム教徒によって破壊された[18]。この砦はオーダンタプリ大学の一部であったと考えられている。

長年にわたって、民事裁判所やナーランダ僧院などの多くの民間および自治体の建物がその上に建設された。1960年代までに、この地域は町自体の一部によって占領され、砦の遺跡はほぼ完全に消滅した[19][20]サルダール・パテール記念大学の原キャンパスもその地域に建てられ、大学とその地域の両方は今でも古代の大学の名前にちなんで「ウダントプリ」と呼ばれている。

750年にベンガルの王位に就いたパーラ朝の創始者ゴーパーラは、オーダンタプリに修道院大学を設立した。しかし、プトゥンによれば、オーダンタプリ修道院はゴーパーラの息子で後継者のダルマパーラによって建てられたという。一方、ターラナータによれば、それはゴーパーラまたはデーヴァパーラのいずれかによって設立された[21]

オーダンタプリは、インド東部の五大僧院のネットワークの一部だった。他はナーランダー、ヴィクラマシーラ、ソーマプラ、ジャガッダラであった。パーラ朝では、ヴィクラマシーラが主要な修道院であった。そしてヴィクラマシーラとオーダンタプリへの国家資金はナーランダに与えられた金額をはるかに上回っていた。その結果、11世紀頃、ナーランダーが生き残りをかけて奮闘していた一方で、オーダンタプリにはパーラ朝の後援を受けて繁栄したライバル機関があった[22]

ターラナータはマハーパーラと呼ばれる王について言及しており、彼はマヒーパーラの息子であり、主にオーダンタプリの声聞を讃え、500人の僧侶と50人の教師を維持していたという。 オーダンタプリの別館として、彼はウルヴァサと呼ばれる僧院を建設し、500 人の「声聞センダパ」(上座部の声聞サインダヴァまたはシンハラ島声聞[23][24]に生計と宿泊施設を提供した。彼はヴィクラマシーラがその地位を維持することを許可しながらも、ウルヴァサを大きな崇拝の中心地にした[25][26]

ターラナータによれば、ラーマパーラの治世中、オーダンタプリには50人の教師とともに「小乗と大乗の両方に属する1,000人の僧侶が常住していた。時には12,000人の僧侶が集まることもあった」[27][28]という。

オーダンタプリ僧院の図書館は、金剛座(ブッダガヤ)やナーランダー僧院の図書館よりも多くのバラモン教と仏教の著作の膨大なコレクションが収められていた。西暦12世紀末頃にハルジー軍が修道院を略奪した際、ムハンマド・バフティヤール・ハルジーの将軍の一人の命令で焼き払われた。虐殺で生き残った僧侶たちはネパールやチベットへ亡命した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ gaṛh means 'fort' in Hindi (inherited from Ashokan Prakrit) - [1]

出典[編集]

  1. ^ Anupam, Hitendra (2001). “Significance of Tibetan Sources in the Study of Odantapuri and Vikaramsila Mahavihars”. Proceedings of the Indian History Congress 61: 424–428. JSTOR 44148119. https://www.jstor.org/stable/44148119. 
  2. ^ Balogh, Daniel (2021). Pithipati Puzzles: Custodians of the Diamond Throne. British Museum Research Publications. pp. 40–58. ISBN 9780861592289. https://books.google.com/books?id=Lk0NzgEACAAJ 
  3. ^ Singh, Anand (2013). “'Destruction' and 'Decline' of Nālandā Mahāvihāra: Prejudices and Praxis”. Journal of the Royal Asiatic Society of Sri Lanka 58 (1): 23–49. ISSN 1391-720X. JSTOR 43854933. https://www.jstor.org/stable/43854933. 
  4. ^ Beglar, J. D. (1878) (英語). Report of a Tour Through the Bengal Provinces of Patna, Gaya, Mongir, and Bhagalpur, the Santal Parganas, Manbhum, Singhbhum, & Birbhum, Bankura, Raniganj, Bardwan and Hughli in 1872-73. Office of the Superintendent of Government Printing. https://books.google.com/books?id=92pBAQAAIAAJ&q=Dandpur 
  5. ^ (英語) The Indian Antiquary, Vol.47. (1918). pp. 109–110. http://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.501821 
  6. ^ Huntington, Susan L. (1984) (英語). The "Pāla-Sena" Schools of Sculpture. Brill Archive. p. 213, no.19; fig.43. ISBN 978-90-04-06856-8. https://books.google.com/books?id=xLA3AAAAIAAJ&dq=Uddandapura&pg=PA116 
  7. ^ Choudhary, Radha Krishna (1958) (sanskrit). Select Inscriptions of Bihar. p. 65 
  8. ^ (中国語) 大正大蔵経. p. 982b. https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php 
  9. ^ 環樹, 小川 (2001) (日本語). 呉船録・攬轡録・驂鸞録. 平凡社. p. 47 
  10. ^ (チベット語) 中华大藏经 丹珠尔(对勘本)vol.36. pp. 1311. https://legacy.tbrc.org/#library_BannerSearchResults-%22rgya+gar+yul+gyi+u+traN%7CDa+pu+ri+%22 
  11. ^ Huntington, Susan L. (1984) (英語). The "Pāla-Sena" Schools of Sculpture. Brill Archive. pp. 116–118. ISBN 978-90-04-06856-8. https://books.google.com/books?id=xLA3AAAAIAAJ&dq=Uddandapura&pg=PA116 
  12. ^ Sumpa Khan po Ye she dpal 'byor, Sarat Chandra Das訳 (1908). Pag Sam Jon Zang. University of California. Calcutta, Pub. by the Presidency Jail Press. p. index142. https://archive.org/details/pagsamjonzang00jorgoog/page/141/mode/2up 
  13. ^ Huber, Toni (2000) (英語, チベット語). The Guide to India * A Tibetan Account. pp. 50, 51 
  14. ^ Barua, Dipak Kumar (1969). Viharas In Ancient India. p. 130. https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.533799 
  15. ^ Panth, Rabindra (2001) (ヒンディー語). Nālandā-- Buddhism and the World: Golden Jubilee Volume. Nava Nalanda Mahavihara. pp. 304. ISBN 978-81-88242-02-3. https://books.google.com/books?id=VWIEAAAAYAAJ&q=%22%E0%A4%B5%E0%A4%B0%E0%A5%8D%E0%A4%A4%E0%A4%AE%E0%A4%BE%E0%A4%A8+%E0%A4%AC%E0%A4%BF%E0%A4%B9%E0%A4%BE%E0%A4%B0%E0%A4%B6%E0%A4%B0%E0%A5%80%E0%A4%AB+%E0%A4%B8%E0%A5%8D%E0%A4%A5%E0%A4%BF%E0%A4%A4+%E0%A4%97%E0%A4%A2%E0%A4%BC%E0%A4%AA%E0%A4%B0+%E0%A4%AE%E0%A5%8B%E0%A4%B9%E0%A4%B2%E0%A5%8D%E0%A4%B2%E0%A5%87+%E0%A4%95%E0%A4%BE+%E0%A4%95%E0%A5%8D%E0%A4%B7%E0%A5%87%E0%A4%A4%E0%A5%8D%E0%A4%B0+%E0%A4%95%E0%A5%8B+%E0%A4%93%E0%A4%A6%E0%A4%82%E0%A4%A4%E0%A4%AA%E0%A5%81%E0%A4%B0%E0%A5%80+%E0%A4%AE%E0%A4%B9%E0%A4%BE%E0%A4%B5%E0%A4%BF%E0%A4%B9%E0%A4%BE%E0%A4%B0+%E0%A4%95%E0%A4%BE+%E0%A4%B8%E0%A5%8D%E0%A4%A5%E0%A4%B2%22 
  16. ^ Anupam, Hitendra (2001). “Significance of Tibetan Sources in the Study of Odantapuri and Vikaramsila Mahavihars”. Proceedings of the Indian History Congress 61: 424–428. JSTOR 44148119. https://www.jstor.org/stable/44148119. 
  17. ^ Rajani, M. B. (2020-09-29) (英語). Patterns in Past Settlements: Geospatial Analysis of Imprints of Cultural Heritage on Landscapes. Springer Nature. pp. 71–72. ISBN 978-981-15-7466-5. https://books.google.com/books?id=kyAAEAAAQBAJ&dq=Odantapuri&pg=PA71 
  18. ^ Jackson, V. H. (1925). Journal of Francis Buchanan (afterwards Hamilton) kept during the survey of the districts of Patna and Gaya in 1811-1812. Superintendent, Govt.Printing, Patna. pp. 89–90. http://archive.org/details/dli.ministry.15444 
  19. ^ Patil, D. R. (1963). The Antiquarian Remains in Bihar. Patna: Kashi Prasad Jayaswal Research Institute. pp. 45–46. http://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.532467 
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  22. ^ Patil, D. R. (1963). The Antiquarian Remains in Bihar. pp. 326. https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.532467/ 
  23. ^ Taranatha, Jo Nang (2007-01-01) (英語). The Seven Instruction Lineages. Library of Tibetan Works and Archives. ISBN 978-81-86470-65-7. https://books.google.com/books?id=MxRNEAAAQBAJ&dq=taranatha+sendhapa&pg=PA143 
  24. ^ Bose, Mainak Kumar (1988) (英語). Late Classical India. A. Mukherjee & Company. https://books.google.com/books?id=nbItAAAAMAAJ&q=Sthaviravadins 
  25. ^ (英語) The History and Culture of the Indian People. Bharatiya Vidya Bhavan. (1964). https://books.google.com/books?id=mQluAAAAMAAJ&q=%22the+king+made+an+annexure+,+called+the+Uruvasa+-+vih%C4%81ra%22 
  26. ^ Einoo, Shingo (英語). Genesis and Development of Tantra. Рипол Классик. ISBN 978-5-88134-784-0. https://books.google.com/books?id=iggRAwAAQBAJ&dq=uruvasa&pg=PA95 
  27. ^ Sen, Tansen (2003) (英語). Buddhism, Diplomacy, and Trade: The Realignment of Sino-Indian Relations, 600-1400. University of Hawaii Press. ISBN 978-0-8248-2593-5. https://books.google.com/books?id=blBTHAY_A4wC&dq=odantapuri&pg=PA108 
  28. ^ (English) Taranatha's History Of Buddhism In India. http://archive.org/details/TaranathasHistoryOfBuddhismInIndia 

参照[編集]

  • 藤田 光寛「パーラ王朝の諸王が建立した4大仏教寺院」『高野山大学密教文化研究所紀要』 (6) 1993, pp.216-200

外部リンク[編集]