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== エピソード ==
== エピソード ==
[[第二次世界大戦]]中、在ポルトガル日本[[公使館]]の館長を務めていた際に、[[欧州連合の父|EUの父]][[リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー|クーデンホーフ=カレルギー]]伯の亡命を手助けし、クーデンホーフ=カレルギー伯から自著『Totaler Staat &ndash; Totaler Mensch』([[1937年]])の英語版『The Totalitarian State against Man』を贈呈されたエピソードが知られる<ref name="yuai">{{harvnb|戸澤『RCK通信』}}; {{harvnb|『友愛』|2004|p=1}}</ref>。この贈呈本は戦後[[鳩山一郎]]による翻訳、翻訳者鳩山による友愛の提唱、鳩山の孫[[鳩山由紀夫]]・[[鳩山邦夫]]らによる[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]の結成、由紀夫の[[東アジア共同体]]提唱へとつながる。
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[[国際汎ヨーロッパ連合|パン・ヨーロッパ運動]]指導者クーデンホーフ=カレルギー伯は[[ナチス・ドイツ]][[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]を公然と批判し、伯はまた[[ユダヤ教|ユダヤ]]差別反対論者でもある。彼のパン・ヨーロッパ運動は潰され<ref>{{harvnb|倉田|2000|p=189}}</ref>、彼はヨーロッパ脱出を試みるが、[[リスボン]]で何かと彼を手助けをしたのが米沢館長であった<ref name="yuai" />。[[1940年]]8月にクーデンホーフ=カレルギー伯は米国亡命に成功し、日本は1940年9月に[[日独伊三国同盟]]を締結した。
[[国際汎ヨーロッパ連合|パン・ヨーロッパ運動]]指導者クーデンホーフ=カレルギー伯は[[ナチス・ドイツ]][[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]を公然と批判し、伯はまた[[ユダヤ教|ユダヤ]]差別反対論者でもある。彼のパン・ヨーロッパ運動は潰され<ref>{{harvnb|倉田|2000|p=189}}</ref>、彼はヨーロッパ脱出を試みるが、[[リスボン]]で何かと彼を手助けをしたのが米沢館長であった<ref name="yuai" />。[[1940年]]8月にクーデンホーフ=カレルギー伯は米国亡命に成功し、日本は1940年9月に[[日独伊三国同盟]]を締結した。


== 著書 ==
== 著書 ==
* 印度國民會議派ノ内部情勢ニ就テ』米澤菊二講演 1939年10月 東亞研究所
* {{Cite book|和書|author=東亜研究所, 米澤菊二 |title=印度國民會議派ノ内部情勢ニ就テ |publisher=東亞研究所 |year=1939 |series=資料 / 東亞研究所] (外乙)第18號B |NCID=BB06357344 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I006599830-00}}
* 『大東亜戦争と印度の地位』国防経済協会 [[1942年]](講演)
* 『大東亜戦争と印度の地位』国防経済協会 1942年(講演)
* 『日葡交通の起原』葡萄牙叢書 第二輯 1942年10月(遡及奥付の編者: 米澤菊二)
* 『日葡交通の起原』葡萄牙叢書 第二輯 1942年10月(遡及奥付の編者: 米澤菊二)
* [[井野碩哉]](述)、米澤菊二(述)『大東亞戰爭と農林政策. 獨立の關頭に立つ印度』 1942年 東洋經濟新報社出版部(經濟倶樂部講演 ; 昭和17年 第26輯)
* [[井野碩哉]](述)、米澤菊二(述)『大東亞戰爭と農林政策. 獨立の關頭に立つ印度』 1942年 東洋經濟新報社出版部(經濟倶樂部講演 ; 昭和17年 第26輯)
* 『大東亞戰爭と印度の地位 : 米澤菊二講演』國防經濟協會、1942年6月
* 『大東亞戰爭と印度の地位 : 米澤菊二講演』國防經濟協會、1942年6月
* 『日満議定書調印記録』 [[1969年]]11月 (霞関会編『霞関会会報』pp. 15-16)
* 『日満議定書調印記録』 1969年11月 (霞関会編『霞関会会報』pp. 15-16)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|author=人事興信所編|title=人事興信録 第13版(上)|publisher=人事興信所|year=1941|ji13}}
* {{cite book|和書|author=人事興信所編|title=人事興信録 第13版(上)|publisher=人事興信所|year=1941|ji13}}
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* {{cite book|和書|author=人事興信所編|title=人事興信録 第14版(上)|publisher=人事興信所|year=1943|ji14}}
*外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。
* 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。
*{{Citation |last= 戸澤 |first= 英典|authorlink=戸澤英典 |url= http://www.law.tohoku.ac.jp/~tozawa/RCK%20HP/yuai2.htm#1|title= 鳩山一郎氏の足跡を追う|work= 2005年「日・EU市民交流年」に向けて - リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーが生み出した「人と人との交流」- (『友愛』2004年9月10日号より転載)|publisher= [[東北大学#組織|東北大学大学院法学研究科・法学部]]教授 戸澤英典研究室『RCK通信』|ref = {{harvid|戸澤『RCK通信』}}}}
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*{{Citation |date= 2004年9月10日|url= http://yuaikyoukai.com/shinbun/471.pdf|title= 機関紙『友愛』第471号|publisher= 一般財団法人 [[鳩山一郎#友愛青年同志会|日本友愛協会]] |ref = {{harvid|『友愛』|2004}}}}
* {{Citation |date= 2004年9月10日|url= http://yuaikyoukai.com/shinbun/471.pdf|title= 機関紙『友愛』第471号|publisher= 一般財団法人 [[鳩山一郎#友愛青年同志会|日本友愛協会]] |ref = {{harvid|『友愛』|2004}}}}
*{{Citation |last= 倉田 |first= 稔 |authorlink=倉田稔 |date= 2000年7月14日|url= http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/568/1/ER_51(1)_173-194.pdf|title= 『グローバル資本主義の物語』について|work= 商学討究 第51巻 第1号: pp. 173-194|publisher= [[小樽商科大学]]学術成果コレクション Barrel}}
* * {{Cite journal|和書|author=[[倉田稔]] |title=『グローバル資本主義の物語』について |journal=商学討究 |ISSN=04748638 |publisher=小樽商科大学 |year=2000 |month=jul |volume=51 |issue=1 |pages=173-194 |naid=110000231957 |url=https://hdl.handle.net/10252/568 |ref={{harvid|倉田|2000}} }}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10003832&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 日印会商を顧みて (上・下) : 日印会商帝国代表カルカッタ総領事 米沢菊二 (大阪朝日新聞 1937.5.18-1937.5.19 (昭和12)) 通商条約 0a-055]
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10003832&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 日印会商を顧みて (上・下) : 日印会商帝国代表カルカッタ総領事 米沢菊二 (大阪朝日新聞 1937.5.18-1937.5.19 (昭和12)) 通商条約 0a-055] 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 通商条約(0a-055)
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10001877&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 新聞記事文庫 国際貿易(0d-042) 産業経済新聞 1943.9.16(昭和18) 貿易業の再整備業者の要望も勘案 交易協会専務理事米沢菊二氏 来阪談]
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10001877&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 新聞記事文庫 国際貿易(0d-042) 産業経済新聞 1943.9.16(昭和18) 貿易業の再整備業者の要望も勘案 交易協会専務理事米沢菊二氏 来阪談] 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 国際貿易(0d-042)
* [[籠谷直人|籠谷, 直人]] [http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48470/1/77_99.pdf 日中戦争前の日本の経済外交 ―第二次「日印会商」(1936~37年)を事例に―] 人文(1996), 77: 99-140. KURENAI : [[京都大学|Kyoto University]] Research Information Repository
* {{Cite journal|和書|author=[[籠谷直人]] |title=日中戦争前の日本の経済外交 ―第二次「日印会商」(1936~37年)を事例に― |journal=人文|ISSN=04490274 |publisher=京都大学人文科学研究所 |year=1996 |month=jan |issue=77 |pages=99-140 |naid=110000238797 |doi=10.14989/48470 |url=https://hdl.handle.net/2433/48470 |ref=harv}}


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2022年1月26日 (水) 14:53時点における版

米澤 菊二(よねざわ きくじ、1894年明治27年)3月 - 1983年昭和58年)11月9日[1])は、日本外交官。駐ポルトガル公使

経歴

石川県出身。1918年大正7年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等試験行政科に合格した[2]農商務省に入省し、福岡鉱務署に鉱務監督官として勤務[2]。のち外務省に転じ、事務官・条約局第三課勤務、イギリス大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事満州国大使館一等書記官、外務書記官・大臣官房電信課長、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、外務省調査部長を歴任[2]1939年(昭和14年)、駐ポルトガル公使に就任し、1941年(昭和16年)に退官した[2]

退官後は、日本交易協会専務理事、東亜研究所理事を務めた[3]

エピソード

第二次世界大戦中、在ポルトガル日本公使館の館長を務めていた際に、EUの父クーデンホーフ=カレルギー伯の亡命を手助けし、クーデンホーフ=カレルギー伯から自著『Totaler Staat – Totaler Mensch』(1937年)の英語版『The Totalitarian State against Man』を贈呈されたエピソードが知られる[4]。この贈呈本は戦後鳩山一郎による翻訳、翻訳者鳩山による友愛の提唱、鳩山の孫鳩山由紀夫鳩山邦夫らによる民主党の結成、由紀夫の東アジア共同体提唱へとつながる。

パン・ヨーロッパ運動指導者クーデンホーフ=カレルギー伯はナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーを公然と批判し、伯はまたユダヤ差別反対論者でもある。彼のパン・ヨーロッパ運動は潰され[5]、彼はヨーロッパ脱出を試みるが、リスボンで何かと彼を手助けをしたのが米沢館長であった[4]1940年8月にクーデンホーフ=カレルギー伯は米国亡命に成功し、日本は1940年9月に日独伊三国同盟を締結した。

著書

  • 東亜研究所, 米澤菊二『印度國民會議派ノ内部情勢ニ就テ』東亞研究所〈資料 / 東亞研究所 [編] (外乙)第18號B〉、1939年。 NCID BB06357344https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I006599830-00 
  • 『大東亜戦争と印度の地位』国防経済協会 1942年(講演)
  • 『日葡交通の起原』葡萄牙叢書 第二輯 1942年10月(遡及奥付の編者: 米澤菊二)
  • 井野碩哉(述)、米澤菊二(述)『大東亞戰爭と農林政策. 獨立の關頭に立つ印度』 1942年 東洋經濟新報社出版部(經濟倶樂部講演 ; 昭和17年 第26輯)
  • 『大東亞戰爭と印度の地位 : 米澤菊二講演』國防經濟協會、1942年6月
  • 『日満議定書調印記録』 1969年11月 (霞関会編『霞関会会報』pp. 15-16)

脚注

  1. ^ 『新版 日本外交史辞典』1034頁。
  2. ^ a b c d 人事興信録 1941.
  3. ^ 人事興信録 1943.
  4. ^ a b 戸澤『RCK通信』; 『友愛』 2004, p. 1
  5. ^ 倉田 2000, p. 189

参考文献

関連項目

外部リンク