長崎女子商業高等学校
表示
長崎女子商業高等学校 | |
---|---|
北緯32度44分54.1秒 東経129度52分41.1秒 / 北緯32.748361度 東経129.878083度座標: 北緯32度44分54.1秒 東経129度52分41.1秒 / 北緯32.748361度 東経129.878083度 | |
過去の名称 |
長崎商業女学校 長崎女子商業学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人長崎女子商業学園 |
校訓 | 誠実・勤勉・清楚 |
設立年月日 | 1925年 |
共学・別学 | 男女別学(女子校) |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | トータルビジネス科 |
学校コード | D142310000068 |
高校コード | 42508H |
所在地 | 〒850-0875 |
長崎県長崎市栄町2-10 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
長崎女子商業高等学校(ながさきじょししょうぎょうこうとうがっこう, Nagasaki Girls' Commercial High School)は、長崎県長崎市栄町にある私立の女子高等学校。
設置課程・学科
[編集]沿革
[編集]- 1925年(大正14年)4月 - 長崎商業女学校として興福寺内に開校。
- 1926年(大正15年) - 長崎女子商業学校と改称。
- 1936年(昭和11年) - 興福寺を離れ、市内新町(現 食糧事務所)に移転。
- 1942年(昭和17年)3月27日 - 設立母体が財団法人組織となる。
- 1943年(昭和18年)4月 - 第二本科(夜間部併設)を設置。
- 1945年(昭和20年)
- 8月9日 - 長崎への原子爆弾投下後に発生した火災の延焼で校舎が全焼。
- 9月1日 - 長崎市立高等女学校校舎(現長崎市立桜馬場中学校の位置)を間借りして授業を再開。
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 佐古国民学校(現長崎市立佐古小学校)校舎を間借りして授業を行う。
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)4月 - 学制改革に伴い、長崎女子商業高等学校(現校名)になる。
- 1951年(昭和26年)3月10日 - 設立母体が財団法人から学校法人長崎女子商業学園となる。
- 1955年(昭和30年)10月15日 - 創立30周年を記念し、校歌を制定。
- 1963年(昭和38年)11月1日 - 学校所在地の酒屋町56番地が住所表示変更で栄町2-10に変更。
- 1970年(昭和45年)10月15日 - 創立40周年記念事業として、校舎・屋上慰霊碑が完成。
- 1972年(昭和47年)3月 - 生徒寮が完成。
- 1975年(昭和50年)11月27日 - 3年生約700名が創立50周年を機に、文化財地域で清掃奉仕を行う。
- 1978年(昭和53年)8月 - 校庭ゴム舗装を行う。
- 1981年(昭和56年)
- 1982年(昭和57年)5月22日 - 琴海グラウンドが完成。
- 1983年(昭和58年)10月17日 - 中国経済視察団が来校。
- 1984年(昭和59年)1月19日 - 中国福州市第三中学と友好締結。
- 1985年(昭和60年)11月28日 - 応援歌を制定。
- 1999年(平成11年)3月31日 - 長崎女子商業中学校が募集停止。高等学校のみとなる[1]。
校訓
[編集]- 「誠実・勤勉・清楚」
校章
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 「女」の文字を模った輪郭の中央に「商」の文字。
校歌
[編集]- 作詞 - 富田伊都子
- 作曲 - 富永梯子
- 3番まであり、2番に校名の「長崎女子商業」が登場する。
学校行事
[編集]部活動
[編集]運動部
[編集]文化部
[編集]- 珠算部 - 開校時から存続。各種珠算競技大会において上位実績あり。
- 電卓部
- 吹奏楽部
- 商業研究部
- ワープロ部
- 放送部
- 書道部
- コンピュータ部
- インターアクトクラブ
- 文芸部
- 英語部
- 中国語部
- 華道部
- 茶道部
- 家庭部
- 美術部
- コーラス部
- 理科部
アクセス
[編集]脚注
[編集]- ^ 廃止校及び新設校・休校一覧 長崎県