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金鍾甲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金 鍾甲
김 종갑
生誕 1922年10月1日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮忠清南道舒川
死没 (1996-11-03) 1996年11月3日(74歳没)
大韓民国の旗 大韓民国
所属組織 大日本帝国陸軍
大韓民国陸軍
最終階級 少尉(日本陸軍)
中将(韓国陸軍)
墓所 国立ソウル顕忠院将軍第3墓域57号
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金 鍾甲(キム・ジョンガプ、김종갑)は大韓民国軍人国会議員太極武功勲章授与者。

経歴

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1922年10月、忠清南道舒川に生まれる。京都府桃山中学校卒業。1940年、延禧専門学校英文科卒業。

学徒出陣の際、呂運亨を尋ねると「この戦争はいずれ日本が負ける。その時こそ独立を勝ち取る時だ。行けば3分の2は戦死するだろうが、独立すれば軍隊が要る。行って生き残り、建国の礎になってくれたまえ」と言われたので福知山予備士官学校に入校し、卒業後は岸和田の独立山砲隊[† 1]に配属され、種子島で終戦を迎えた。

1945年9月、帰国。

1946年1月28日付で軍事英語学校を卒業して少尉に任官(軍番10030番)[1]。同年3月、任中尉。4月、春川で第8連隊の創設に任じ、同連隊A中隊長[2]。12月に編成が完結すると副連隊長(大尉)[3]

1947年3月10日、陸軍本部作戦教育処長(少領[4]。7月20日、警備士官学校憲兵課長[4]。10月30日、総司令部に軍紀司令部が設置され、初代司令官に就任[4]。12月1日、第6連隊長[5]

1949年4月、陸軍士官学校生徒隊長。8月12日、第18連隊長(大領[6]。11月13日、第7師団参謀長[7]

1950年6月、朝鮮戦争が勃発してソウルが陥落すると始興戦闘司令部参謀長。同年7月5日、始興戦闘司令部が第1軍団に改編されると同軍団の作戦参謀となる[8]。9月16日、第1軍団参謀長[9]。軍団長を補佐し、9月に准将に昇進した。

1950年12月、第9師団長に任命され、後方のゲリラ討伐を指揮した。3月、陸軍本部防衛局長[† 2]。第5軍団長[† 3]。1951年11月、第2訓練所長

1952年8月、第5師団長。東部で北朝鮮軍第9師団と351高地の争奪戦を繰り広げた。1953年1月、少将に昇進し、5月にアメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学。1954年6月に帰国し、第5師団長に復帰。

1955年8月、陸軍大学副総長[10]。のちに陸軍本部管理局長代理を務め、1956年7月に中将昇進と同時に予備役編入となった。編入後は国防部次官に任命された。1963年、第6代国会議員保寧舒川区、民主共和党)に当選し、国会国防委員長。1972年、善仁財団理事。

脚注

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  1. ^ 信太山の独立山砲兵第17連隊か
  2. ^ 国民防衛軍の育成に当たる局
  3. ^ 国民防衛軍50万人で10個の予備師団を造成したもの。

出典

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  1. ^ 佐々木 1976, p. 86.
  2. ^ 佐々木 1976, p. 174.
  3. ^ 佐々木 1976, p. 175.
  4. ^ a b c 国防軍史研究所 1997, p. 596.
  5. ^ 佐々木 1976, p. 196.
  6. ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 上巻』、208頁。 
  7. ^ 佐々木 1976, p. 214.
  8. ^ 김행복 2005, p. 55.
  9. ^ 김행복 2005, p. 54.
  10. ^ 金鍾甲少將就任陸大副總長에(鎭海)” (韓国語). 国史編纂委員会. 2015年11月8日閲覧。

参考文献

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  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。 
  • 호국전몰용사공훈록 제5권(창군기)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年2月20日閲覧。
  • 김행복 (2005). 흥남철수작전. 국가보훈처