藤原棟世
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時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 正四位下、摂津守 |
主君 | 村上天皇 |
氏族 | 藤原南家巨勢麻呂流 |
父母 | 父:藤原保方、母:船木氏の娘 |
妻 | 清少納言(清原元輔の娘) |
子 | 上東門院小馬命婦、重通 |
藤原 棟世(ふじわら の むねよ)は、平安時代中期の貴族。藤原南家・巨勢麻呂流、伊賀守・藤原保方の子。官位は正四位下・摂津守。
経歴
[編集]応和3年(963年)村上天皇の六位蔵人に補任。以後、筑前守・山城守・摂津守といった地方官を歴任した。また、円融朝で右中弁も務めている。
『枕草子』の著者・清少納言の2番目の夫。清少納言の生年は康保3年(966年)頃と推定されていることから、棟世は清少納言より20歳以上年長であったと推測される。ただし、『枕草子』には清少納言の最初の夫・橘則光がたびたび登場するのと対照的に、棟世の名は見えない[1]。
棟世の経歴は明らかでないが、増淵勝一による以下の推定がある。
- 棟世の山城守任官時期を永観・寛和年間(983年-987年)とし、父・清原元輔の友人である棟世と清少納言の結婚を寛和2年(986年)ごろとする。長徳末から長保初頭(998年-999年)には、小馬は10歳くらいで中宮・藤原彰子に仕え、それが棟世の摂津守任官にも繋がった。
- 『後拾遺和歌集抄』の小馬命婦の注記に「前摂津守藤原棟世朝臣女、母清少納言、上東門院女房、童名狛、俗称小馬」とあるが[2]、催馬楽「山城」に「山城の狛のわたりの瓜つくり な なよや」とあることを踏まえ、「山城守」の娘の「狛」なる連想が働いて童名となった[3]。
- 長保2年(1000年)皇后・藤原定子崩御の直後、清少納言は棟世の任国であった摂津に身を寄せていた[4]。摂津守の後任は藤原説孝で、長保6年(1004年)2月にその在任が確認できることから[5]、棟世の没年を長保3年(1001年)の夏頃との推定する[6]。
官歴
[編集]- 応和3年(963年) 2月2日:再補六位蔵人、見木工権助[7]。日付不詳:去蔵人?[8]
- 貞元2年(977年) 日付不詳:見右中弁[9]
- 時期不詳:正四位下。筑前守。山城守[10]
- 長保元年(999年)7月3日:見摂津守[11]
系譜
[編集]注記のないものは『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]- ^ 「関白殿、二月廿一日に」の段(日本古典文学大系278段)に、中宮が「むねたか」なる人物に清少納言が見つからないよう気遣っていた旨を中宮の兄・伊周が言及する場面があり、この「むねたか」は清少納言が宮仕えのため別居中であった棟世の名前をぼかしたものではないかとする説がある(萩谷朴『枕草子解環』同朋舎、1981年、5巻53-56頁)。
- ^ a b 早稲田大学大学院文学研究科蔵『後拾遺和歌抄』第16(909番歌-下記参照)
- ^ 増淵勝一『平安朝文学成立の研究 韻文編』国研出版、1991年4月、145頁。
- ^ 『清少納言集』詞書
- ^ 『日本紀略』長保6年2月26日条
- ^ 増淵勝一『平安朝文学成立の研究 韻文編』国研出版、1991年4月、142頁。
- ^ 『元亨四年具注暦裏書』(『大日本史料』1-11-186)
- ^ 『蔵人補任』
- ^ 『大日本史料』1-16,212頁
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 『小右記』長保元年7月3日条