藤原憲輔
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藤原 憲輔(ふじわら の のりすけ、生年不詳 - 承暦3年7月8日(1079年8月7日))は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家勧修寺流、美濃守・藤原頼明の子。官位は正四位下・備前守。
経歴
[編集]後朱雀朝初頭に蔵人式部丞を務め、長暦3年(1039年)巡爵により従五位下に叙せられ、加賀守として受領に転じた。
その後、左衛門権佐として京官に復したとみられるが、康平年間(1058年~1065年)初頭に備中守を務めると、備後守・近江守・備前守と後冷泉朝・後三条朝・白河朝の三朝20年に亘って受領を歴任。後三条朝初頭の治暦4年(1068年)には正四位下への叙位を受けている。
承暦元年(1077年)ごろまで備前守を務めるが、まもなく出家し備前入道と呼ばれた[1]。承暦3年(1079年)7月8日卒去。
官歴
[編集]- 長暦2年(1038年) 9月15日:見六位蔵人[2]。12月23日:見蔵人式部丞[2]
- 長暦3年(1039年) 正月6日:従五位下[2]
- 長久元年(1040年) 4月9日:見加賀守[2]
- 時期不詳:左衛門権佐[3]
- 康平2年(1059年) 5月1日:見備中守正五位下[4]
- 康平5年(1062年) 5月2日:見備後守[5]
- 治暦4年(1068年) 日付不詳:見宮内卿兼近江守[6]。11月21日:正四位下(または正四位上)[7]
- 承保元年(1074年) 7月10日:見備前守[8]
- 承暦元年(1077年) 10月13日:見備前守[9]
- 時期不詳:出家
- 承暦3年(1079年) 7月8日:卒去[10]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。