藤原光継
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生誕 | 不明 |
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死没 | 延元3年/暦応元年(1338年)2月28日 |
官位 | 従二位・権中納言 |
主君 | 後醍醐天皇→光厳天皇→後醍醐天皇 |
氏族 | 葉室家庶流堀川家 |
父母 | 父:藤原光泰 |
藤原 光継(ふじわら の みつつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公家。藤原光泰の次男。葉室家庶流堀川家。葉室光俊の曾孫にあたる。官位は従二位・権中納言、信濃守。
経歴
[編集]蔵人頭兼宮内卿を経て、嘉暦3年(1328年)9月23日参議に任じられる。後醍醐天皇の隠岐島配流後は光厳天皇に仕え、再び後醍醐天皇に仕えた。元弘3年(1333年)雑訴決断所の構成員となる。建武2年(1335年)8月、中先代の乱鎮圧後の信濃国に国司(信濃守)として下向。鎌倉で朝廷に反旗を翻した足利尊氏に対し、東海道・東山道両道に約1万騎の大軍が発せられると2000騎を率いて合流し大井城を攻め落とした。
後醍醐天皇の京都逐電に伴い解官。翌3年(1336年)正月には後醍醐の近江国坂本の陣に参陣し、延元元年(1336年)5月25日、従二位権中納言に昇進、その後、二条師基に従い河内国に下向した(『南朝編年紀略』)。延元3年/暦応元年(1338年)2月28日、南都合戦で北畠顕家の軍勢の一員として戦い敗死した。