稲垣太祥
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ノート:稲垣太清に、このページに関する議論があります。 議論の要約:稲垣太清・太祥・民子3代の代替わりについて |
時代 | 江戸時代末期 - 昭和時代 |
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生誕 | 安政6年6月11日(1859年7月10日) |
死没 | 昭和7年(1932年)1月27日 |
別名 | 太良、藤五郎(通称)、蘭圃(雅号) |
墓所 | 吉祥寺(東京都文京区駒込) |
官位 | 正三位、従二位勲二等子爵 |
藩 | 近江山上藩の第9代藩主 |
氏族 | 稲垣氏 |
父母 | 父:稲垣太清 |
兄弟 | 太祥、民(松平銀太郎室) |
妻 |
藤波教忠女 渡辺潔綱女 |
子 | 重厚 |
稲垣 太祥(いながき もとよし)は、近江山上藩の第9代(最後)の藩主、子爵。位階勲等は従二位勲二等。第8代藩主稲垣太清の長男。正室は藤波教忠の娘。継室は渡辺潔綱の娘。子は稲垣重厚(長男)。通称は藤五郎。名は太良とも。日本画を滝和亭に師事し、号は蘭圃。
経歴
[編集]明治元年(1868年)12月24日から病に倒れた父の代理として藩政を担う。明治4年(1871年)9月30日、父の隠居により家督を相続する。明治12年(1879年)8月6日、隠居し、妹の民子(後の松平銀太郎妻)に家督を譲る。明治19年(1886年)6月28日、民子の隠居により、再び家督を相続する。同年7月16日、子爵となった。稲垣家は女性戸主であったため、叙爵がなされていなかった。明治25年(1892年)7月30日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[1][2]、その後、6期連続で選ばれ死去するまで在任した[1][3]。昭和7年(1932年)正月27日、74歳で死去した。
栄典
[編集]家族
[編集]父母
妻
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (山上)稲垣家初代 1886年 - 1932年 |
次代 稲垣重厚 |
当主 | ||
先代 稲垣民子 |
旧山上藩稲垣家 1886年 - 1932年 |
次代 稲垣重厚 |
先代 稲垣太清 |
山上藩稲垣家 1869年 - 1879年 |
次代 稲垣民子 |