石井忠躬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石井 忠躬
時代 江戸時代末期
生誕 天保8年(1837年
死没 明治16年(1883年
別名 鍋島総若、石井総之助、石井靭負、石井久馬
墓所 佐賀県佐賀市本庄町鹿子の常照院
幕府 江戸幕府
主君 鍋島直与鍋島直紀
肥前国蓮池藩
氏族 鍋島氏肥前石井氏
父母 父:鍋島直与、母:側室 犬塚左馬五郎女
養父:石井清慎 
兄弟 鍋島直紀忠躬、藤珍彦(鍋島紀方)
石井清慎の娘
石井忠世、武富縫子(武富時敏夫人)
養子:石井作一、養女:石井サヨ(養子・作一夫人)
テンプレートを表示

石井 忠躬(いしい ただみ、天保8年(1837年) - 明治16年(1883年)は、幕末肥前国佐賀藩の支藩である蓮池藩家老(執政)。明治時代初期の陸軍軍人官吏(地方官)。旧名(幼名)は鍋島総若。通称は総之助、久馬、靭負。

来歴[編集]

西南雄藩の一つである肥前国佐賀藩の支藩蓮池藩第8代藩主鍋島直与(雲叟公)の三男として生まれた。母は直与の側室である藩士犬塚左馬五郎の娘。本藩である佐賀藩第8代藩主鍋島治茂は祖父にあたり、第10代藩主鍋島直正(閑叟公)は従兄にあたる。祖父、父、そして従兄はいずれも名君として知られている。

10歳のとき、蓮池藩の世襲家老をつとめる石井玄蕃清慎の婿養子となった。石井家は、佐賀藩祖鍋島直茂の正室で、初代藩主勝茂の生母である陽泰院の実家で、本藩でも「藩祖以来の外戚」として殊遇を享けた一族であった。養父の玄蕃清慎は、本藩初代藩主勝茂の従兄石井修理亮茂成の9代目の当主であった。

石井家の第10代当主として家督と家禄(900石)を継いで、若くして藩の執政に就任し、兄で第9代藩主鍋島直紀の藩政を補佐した。

激動の幕末期にあって、江戸に遊学し、中央の情勢にも通じていた他、内政においても、藩財政の窮乏と藩士の士気低下を憂慮し、みずからの資産の一部を処分し、困窮していた藩士に分配するなど、若いながらも大器を持った青年家老であった(『蓮池藩日誌』)。皆が「さすがは名君の血筋、治茂公の孫であり、直与公の子である」と忠躬を讃えたという。

戊辰戦争では、蓮池藩は朝廷の命令に応じて、総勢545名の遠征隊を編成し、奥羽地方に出兵した。忠躬は兄直紀の陣代として、蓮池隊の指揮を執った。

蓮池隊は、出羽国酒田市に駐屯し、治安維持の任務についたが、隊の規律の良さは、忠躬の素晴らしい統率によるものと高く評価された。

また、撤兵に際しては、横浜港からイギリス商船を利用して帰国の途についたが、途中に寄港した神戸港において、藩兵とイギリス船員との間で紛争が発生し、国際問題になる懸念があったが、忠躬が毅然とした対応をとり、事態を収拾。藩士たちの人望を集めたという。

明治維新を迎え、蓮池藩の大参事に就任し、維新期の藩政を采配するも、中央政府の各藩に対する人材の刷新など藩政改革の要求が強まり、いわゆる「門閥」階層にあった忠躬は大参事を辞任した。その後、陸軍大尉に任ぜられ、維新時過渡期の蓮池藩の軍事・警察部門を管掌したが、朝廷の長崎巡見使護衛のために出動した際、忠躬の独断で、西洋式の兵制を用いて、藩兵に脱刀を命じていたことが問題視され、罷免処分となった。

晩年は、義弟鍋島直彬沖縄県令に就任すると、直彬に従って沖縄県に地方官として赴任した。久米島宮古島の行政長官として離島経営に従事した。

明治16年(1883年)に死去。享年46。墓所は石井家の菩提寺である佐賀県佐賀市常照院にある。

嫡男は教育者の石井忠世。娘の縫子は、大隈重信内閣内閣書記官長逓信大臣大蔵大臣衆議院貴族院議員を歴任した武富時敏に嫁いだ。孫の武富敏彦外交官となり外務省通商局長・駐オランダ公使・駐トルコ大使をつとめ、常設国際司法裁判所安達峰一郎の娘婿として知られている。その他、孫婿に横尾紋太郎陸軍中佐、養孫に石井利雄海軍中尉がいる。