コンテンツにスキップ

田島正雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田島正雄

田島 正雄(たじま まさお、1890年明治23年)5月8日[1][2][3] - 1962年昭和37年)8月17日[1][2][4])は、大正から昭和期の実業家政治家大阪商船副社長、大阪商工会議所会頭、貴族院勅選議員

経歴

[編集]

奈良県添上郡奈良町角振新屋町11番地(現奈良市)で、田島基光の五男として生まれる[1][2][3][5][注 1]。1913年(大正2年)7月、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した[1][2][4][5]

卒業後、宇治川電気に入社した[1][2][4]。語学の才があり勧誘を受け、1916年(大正5)12月に大阪商船に転じた[1][2]。あふりか丸事務員、ロンドン在勤員、ケープタウン在勤員、ニューヨーク支店長を務め、1937年(昭和12年)1月、本社遠洋課長に就任した[1][2][3][5]。1939年(昭和14年)1月、取締役に昇進し、専務取締役を経て、1944年(昭和19年)11月、副社長に就任した[1][2]。この間、1942年(昭和17年)4月、船舶運営会理事長に就任し、同総裁(1943.10.1-1944.6.7)[6]運輸通信省海運総局海運局長(1944.2.26-6.6)[7]を務め、戦時下の海運統制、運営に協力した[1][2][4]。その他、原田汽船取締役、朝鮮郵船取締役、日本海汽船取締役、国際運輸取締役、山際運輸取締役なども務めた[3][5]

1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ[1][4][8]同和会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[4]

1946年9月、大阪商工会議所会頭に就任したが[1][2]公職追放となり[9]同年12月に会頭と大阪商船副社長を辞任した[2]

1949年(昭和24年)10月、第一汽船(現第一中央汽船)社長に就任し、会長を経て1953年(昭和28年)5月に退社した[1][2]。1956(昭和31年)3月、大阪国際見本市委員会理事長兼事務局長に就任し、1960年(昭和35年)6月まで在任して貿易の振興に尽力した[1][2]

その後、病のため療養をしていたが、1962年8月、心不全のため伊丹市民病院で死去した[2]

著作

[編集]
  • 述『東アフリカの事情』〈講演倶楽部 no.7〉阪神実業協会、1926年。
  • 『東アフリカ経済事情調査報告書』大阪商船、1926年。
  • 『阿弗利加の旅』大阪商船、1942年。
  • 述『船舶運営会に就て』生産拡充研究会、1942年。
  • 『未完成の第二次大戦』創元社、1956年。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 祖父は郡山藩家老。「歴代会頭物語 (最終回)」45頁。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『斯の人を』229-232頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「歴代会頭物語 (最終回)」44-45頁。
  3. ^ a b c d 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』兵庫92頁。
  4. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』134頁。
  5. ^ a b c d 『人事興信録 第14版 下』タ13頁。
  6. ^ 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、146頁。
  7. ^ 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、31頁。
  8. ^ 『官報』第5757号、昭和21年3月26日。
  9. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、613頁。公職追放の該当事項は「大阪商船専務副社長」。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『斯の人を : 続・日本経済を育てた人々』関西経済連合会、1968年。
  • 由上勝男「歴代会頭物語 (最終回) 十五代会頭 田島正雄」『Chamber』206、大阪商工会議所、1968年。
  • 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。


先代
大谷登
船舶運営会総裁
1943年 - 1944年
次代
寺井久信
先代
関桂三
大阪商工会議所会頭
1946年
次代
杉道助