「不動院 (山武市)」の版間の差分
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[[天平]]3年([[731年]])[[行基]]が東国巡錫の折、[[不動明王]]の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後[[平安時代]]の初め[[空海|弘法大師(空海)]]が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。本堂には、不動明王と「こんがら」「せいたか」の二童子が安置され、古来より浪切不動院と呼ばれ海難防止に寄与してきた。現在は海岸が後退したため海上からは見えないが、遭難しそうになった船が常夜灯の灯りによって救われたという逸話も残されている。 |
[[天平]]3年([[731年]])[[行基]]が東国巡錫の折、[[不動明王]]の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後[[平安時代]]の初め[[空海|弘法大師(空海)]]が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。本堂には、不動明王と「こんがら」「せいたか」の二童子が安置され、古来より浪切不動院と呼ばれ海難防止に寄与してきた。現在は海岸が後退したため海上からは見えないが、遭難しそうになった船が常夜灯の灯りによって救われたという逸話も残されている。 |
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[[明治維新]]後その役目を終え、[[文化遺産]]として現存している。また、本寺の円頓寺は[[大同 (日本)|大同]]4年([[809年]])に[[橘諸兄]]の末孫日和大膳 |
[[明治維新]]後その役目を終え、[[文化遺産]]として現存している。また、本寺の円頓寺は[[大同 (日本)|大同]]4年([[809年]])に[[橘諸兄]]の末孫日和大膳大夫景吉が建立したとされる古刹であるが、一旦廃絶し[[建治]]3年([[1277年]])に再興され、[[天和 (日本)|天和]]年間([[1681年]]-[[1684年]])には[[荻生徂徠]]が[[朱子学]]の基本書ともいえる「四書大全」を学んだところと言われる。しかし明治維新で再び廃絶し現在は公民館になっている。 |
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本堂の創建年代について明確な記録は無いが、改修に当たって発見された棟札に[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])と記されていたと伝えられており、現在の本堂の建立時期は少なくとも[[江戸時代]]初期にまで遡ると考えられる。その後何度か本堂の改修が行われ、[[明治]]以降も明治45年([[1912年]])と[[昭和]]30年([[1955年]])に改修が行われている。昭和49年([[1974年]])には基礎石積工事が完成し、懸崖造りの維持保存がされている。 |
本堂の創建年代について明確な記録は無いが、改修に当たって発見された棟札に[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])と記されていたと伝えられており、現在の本堂の建立時期は少なくとも[[江戸時代]]初期にまで遡ると考えられる。その後何度か本堂の改修が行われ、[[明治]]以降も明治45年([[1912年]])と[[昭和]]30年([[1955年]])に改修が行われている。昭和49年([[1974年]])には基礎石積工事が完成し、懸崖造りの維持保存がされている。 |
2021年9月18日 (土) 22:52時点における版
不動院長勝寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 千葉県山武市成東2551 |
位置 | 北緯35度36分19秒 東経140度24分30秒 / 北緯35.60528度 東経140.40833度座標: 北緯35度36分19秒 東経140度24分30秒 / 北緯35.60528度 東経140.40833度 |
山号 | 成東山 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 不動明王 |
創建年 | 天平3年 |
開基 | 行基 |
中興 | 弘法大師(空海) |
正式名 | 成東山不動院長勝寺 |
別称 | 浪切不動 |
札所等 | 新上総国三十三観音霊場第三十二番 |
文化財 |
石塚の森(千葉県指定天然記念物) 不動院長勝寺本堂(山武市指定文化財) |
法人番号 | 8040005010586 |
不動院(ふどういん)は、千葉県山武市成東にある真言宗智山派の寺院。山号は成東山。寺号は長勝寺。元々は下横地村(現在の山武市下横地)にあった円頓寺の末寺である。
概要
標高30mの石塚山(石塚の森)の中腹の岩石上に本堂があり、入母屋造瓦葺き、間口三間、奥行四間、欄干・回廊をめぐらした懸崖造り(朱塗り)で、石積みの基壇の上に本堂内陣まで貫通している通し柱2本を含め26本の柱によって支えられている。
天平3年(731年)行基が東国巡錫の折、不動明王の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後平安時代の初め弘法大師(空海)が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。本堂には、不動明王と「こんがら」「せいたか」の二童子が安置され、古来より浪切不動院と呼ばれ海難防止に寄与してきた。現在は海岸が後退したため海上からは見えないが、遭難しそうになった船が常夜灯の灯りによって救われたという逸話も残されている。
明治維新後その役目を終え、文化遺産として現存している。また、本寺の円頓寺は大同4年(809年)に橘諸兄の末孫日和大膳大夫景吉が建立したとされる古刹であるが、一旦廃絶し建治3年(1277年)に再興され、天和年間(1681年-1684年)には荻生徂徠が朱子学の基本書ともいえる「四書大全」を学んだところと言われる。しかし明治維新で再び廃絶し現在は公民館になっている。
本堂の創建年代について明確な記録は無いが、改修に当たって発見された棟札に元和4年(1618年)と記されていたと伝えられており、現在の本堂の建立時期は少なくとも江戸時代初期にまで遡ると考えられる。その後何度か本堂の改修が行われ、明治以降も明治45年(1912年)と昭和30年(1955年)に改修が行われている。昭和49年(1974年)には基礎石積工事が完成し、懸崖造りの維持保存がされている。
交通アクセス
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会 『角川日本地名大辞典 12 千葉県』 角川書店、1991年、ISBN 4-04-001120-1、743頁
- 千葉県山武郡教育会 『山武郡郷土誌』、大正5年初版、昭和62年 復刻版発行、臨川書店、ISBN 4-653-01582-1、503頁