「章徳竇皇后」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
6行目: | 6行目: | ||
| 画像サイズ = |
| 画像サイズ = |
||
| 画像説明 = |
| 画像説明 = |
||
| 在位 = [[78年]] - [[88年]] |
| 在位 = [[78年]][[4月3日]] - [[88年]][[4月9日]] |
||
| 戴冠日 = |
| 戴冠日 = |
||
| 別称号 = |
| 別称号 = |
||
13行目: | 13行目: | ||
| 出生日 = |
| 出生日 = |
||
| 生地 = |
| 生地 = |
||
| 死亡日 = [[永元 (漢)|永元]]9年([[97年]]) |
| 死亡日 = [[永元 (漢)|永元]]9年閏[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]<br>([[97年]][[10月8日]]) |
||
| 没地 = |
| 没地 = |
||
| 埋葬日 = |
| 埋葬日 = |
||
36行目: | 36行目: | ||
竇勳と沘陽公主(父は東海王[[劉彊]])との間の長女として生まれた。幼い頃に人相見が竇氏を見て「大変高貴な身分に昇るだろう」と言った。美貌の持ち主で、書道に優れていたため、親戚たちは驚いたという。 |
竇勳と沘陽公主(父は東海王[[劉彊]])との間の長女として生まれた。幼い頃に人相見が竇氏を見て「大変高貴な身分に昇るだろう」と言った。美貌の持ち主で、書道に優れていたため、親戚たちは驚いたという。 |
||
[[建初 (漢)|建初]]2年([[77年]])、妹とともに宮中に参内した。章帝と[[明徳馬皇后 |馬太后]]から好印象を持たれたため、章帝の後宮に入った。翌年に皇后に立てられた。妹も貴人となった。 |
[[建初 (漢)|建初]]2年([[77年]])、妹とともに宮中に参内した。章帝と[[明徳馬皇后 |馬太后]]から好印象を持たれたため、章帝の後宮に入った。翌年3月に皇后に立てられた。妹も貴人となった。 |
||
初め、章帝から大変な寵愛を受けたが皇子を産むことはできなかった。逆に宋貴人は皇太子の[[劉慶 (清河王)|劉慶]]を産んだ。梁貴人は[[劉肇]]を産んだ。竇皇后はこのことを嫉妬して宋貴人や梁貴人を讒言した。宋貴人は自殺し、その子である劉慶も廃嫡されて清河王となった。また梁貴人は失意のうちに死去した。竇皇后は劉肇を自分の子として養育した。その後、竇皇后は後宮の者たちに恐れられた一方で、いっそう寵愛された。 |
初め、章帝から大変な寵愛を受けたが皇子を産むことはできなかった。逆に宋貴人は皇太子の[[劉慶 (清河王)|劉慶]]を産んだ。梁貴人は[[劉肇]]を産んだ。竇皇后はこのことを嫉妬して宋貴人や梁貴人を讒言した。宋貴人は自殺し、その子である劉慶も廃嫡されて清河王となった。また梁貴人は失意のうちに死去した。竇皇后は劉肇を自分の子として養育した。その後、竇皇后は後宮の者たちに恐れられた一方で、いっそう寵愛された。 |
||
44行目: | 44行目: | ||
[[永元 (漢)|永元]]4年([[92年]])、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。和帝は政治の実権を取り戻すことに成功した。 |
[[永元 (漢)|永元]]4年([[92年]])、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。和帝は政治の実権を取り戻すことに成功した。 |
||
永元9年(97年)に死去 |
永元9年(97年)に死去。梁貴人の姉である梁嫕は上書して梁貴人の無実を訴えた。また大臣たちは「[[呂雉|呂后]]のように尊号を奪われるべきである」と進言したが、拒否された。'''章徳皇后'''とされた。章帝の敬陵に合葬された。 |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2021年4月18日 (日) 03:40時点における版
竇皇后 | |
---|---|
後漢の皇后 | |
在位 | 78年4月3日 - 88年4月9日 |
別称 | 章徳皇后 |
死去 |
永元9年閏8月14日 (97年10月8日) |
埋葬 | 敬陵 |
配偶者 | 章帝 |
氏族 | 扶風竇氏 |
父親 | 竇勳 |
母親 | 沘陽公主 |
兄弟 |
竇憲 竇篤 竇景 竇瑰 |
妹 | 竇貴人 |
竇皇后(とうこうごう、? - 97年)は、後漢の章帝の皇后。扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。
生涯
竇勳と沘陽公主(父は東海王劉彊)との間の長女として生まれた。幼い頃に人相見が竇氏を見て「大変高貴な身分に昇るだろう」と言った。美貌の持ち主で、書道に優れていたため、親戚たちは驚いたという。
建初2年(77年)、妹とともに宮中に参内した。章帝と馬太后から好印象を持たれたため、章帝の後宮に入った。翌年3月に皇后に立てられた。妹も貴人となった。
初め、章帝から大変な寵愛を受けたが皇子を産むことはできなかった。逆に宋貴人は皇太子の劉慶を産んだ。梁貴人は劉肇を産んだ。竇皇后はこのことを嫉妬して宋貴人や梁貴人を讒言した。宋貴人は自殺し、その子である劉慶も廃嫡されて清河王となった。また梁貴人は失意のうちに死去した。竇皇后は劉肇を自分の子として養育した。その後、竇皇后は後宮の者たちに恐れられた一方で、いっそう寵愛された。
章和2年(88年)に章帝が死去し、劉肇は即位した。皇太后として臨朝し、兄である竇憲らと政権を握った。一族は権勢を誇った。和帝は成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。
永元4年(92年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。和帝は政治の実権を取り戻すことに成功した。
永元9年(97年)に死去。梁貴人の姉である梁嫕は上書して梁貴人の無実を訴えた。また大臣たちは「呂后のように尊号を奪われるべきである」と進言したが、拒否された。章徳皇后とされた。章帝の敬陵に合葬された。