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[[ローマ内戦 (68年-70年)|68年からの内戦]]で[[ウェスパシアヌス]]の最大の支持者となり、[[イタリア]]に進軍、[[69年]]の[[10月]]に[[ベドリアクムの戦い]]で[[アウルス・ウィテッリウス]]の軍を打ち破ったマルクス・アントニウス・プリムス(20年~35年の間 - 81年以降)はユッルスの長男ルキウスの息子もしくは孫の可能性がある(Wellesley, Kenneth (2002). ''Year of the Four Emperors''. Roman Imperial Biographies )。プリムスの妹にアントニア・ポストゥマ(34年生まれ)という女性がいたという。この場合、プリムスとアントニア・ポストゥマはユッルスの孫もしくは曾孫、ユッルスの父マルクス・アントニウスの曾孫もしくは玄孫となる。これが事実なら、マルクス・アントニウス自死から少なくとも約100年後の西暦1世紀後半までアントニウス家男系の血統は存続していることになる。 |
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== 家系図 == |
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2021年1月11日 (月) 05:51時点における版
ユッルス・アントニウス(Iullus Antonius(Iulus、JulusまたJullusとも)、紀元前43年 - 紀元前2年)は、古代ローマの人物。マルクス・アントニウスとその3番目の妻フルウィアの次男。執政官、アジア属州総督などを歴任した。アウグストゥスの娘ユリアの愛人として知られる。
同母兄にマルクス・アントニウス・アンテュッルス。妻は義妹(継母小オクタウィアの子)でもある大マルケッラ。ほか多数の異父兄弟、異母兄弟、義理の兄弟がいる(後述)。
生涯
幼年時代
ローマに生まれたユッルスと兄のマルクス・アンテュッルスは、波乱に満ちた少年時代を送ることとなる。
ユッルスの生まれた紀元前43年の10月、父アントニウスは、それまで対立していたオクタウィアヌスらと手を組み、第2回三頭政治を成立させた。それに伴いオクタウィアヌスは、アントニウスの義理の娘で、ユッルスには異父姉(母フルウィアと最初の夫との子)にあたるクロディア・プルケラと最初の結婚をすることとなったが、彼女と床をともにすることのないまま紀元前41年に離婚した。
フルウィアはこのことを一族に対する侮辱と捉え、ユッルスの叔父であるルキウス・アントニウスとともにイタリアで蜂起する(ペルシアの戦い)。フルウィアとルキウスの軍は一時ローマを占領したものの、結局ペルシア(現在のペルージャ)に後退した。紀元前41年から翌40年にかけての冬にはオクタウィアヌスによる兵糧攻めに遭い、降服に追い込まれる。フルウィアはシキュオンに脱出するが、そこで病を得て急死した。
フルウィアの死の同年、父アントニウスはオクタウィアヌスの姉小オクタウィアを妻に迎える。この結婚は元老院の斡旋による政略結婚で、当時オクタウィアは先夫マルケッルスの子である小マルケッラを妊娠していた。にもかかわらず、オクタウィアはアントニウスに貞淑な妻として仕え、またユッルスなどアントニウスの子供たちには、自身の子供たちと同様の愛情を注いだ。
紀元前40年から36年にかけ、夫婦はアテナイに邸宅を構え、また一家で各属州を旅した。この間オクタウィアは、ユッルスには異母妹となる2人の娘大アントニアと小アントニアの姉妹をもうけている。
内戦
しかし紀元前36年、アントニウスはオクタウィアとローマにいた子供たちを捨て、かつての愛人クレオパトラの元へ奔った。紀元前32年頃には夫婦の離婚が成立し、ユッルスとその異母妹たちはローマのオクタウィアの元に引き取られ、兄のマルクス・アンティッルスは父に従いエジプトに残った。
紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの艦隊は壊滅し、アントニウスたちはエジプトに逃げ帰ることとなる。紀元前30年秋、オクタウィアヌスはアグリッパとともにエジプトへ侵攻した。逃げ場を失った父アントニウスは自刃し、クレオパトラもその後を追った。
こうしてオクタウィアヌスはエジプトの支配権を掌握し、ローマの版図に組み込んだ。そして紀元前27年、ローマへ凱旋したオクタウィアヌスはアウグストゥスの称号を受ける。
皇帝の血族として
アウグストゥスは、ユッルスの兄マルクス・アンティッルスや義兄(※実兄という説もある)のカエサリオンらを処刑する一方、アンティッルス以外のアントニウスの遺児、すなわちユッルスや大アントニア・小アントニア姉妹、そしてクレオパトラの間に生まれた3人の子らには寛大な対応を見せた。彼らはオクタウィアの元でローマ市民として育てられ、ユッルスはこの継母の引き立てにより、宿敵の子であるにもかかわらずアウグストゥスからの寵遇を受けることとなった。
ユッルスはオクタウィアの求めにより、オクタウィアがマルケッルスとの間にもうけた娘(即ち皇帝の姪)大マルケッラと結婚する。マルケッラは元々アウグストゥスの盟友アグリッパの妻だったが、アウグストゥスが自身の娘ユリアの再婚相手にアグリッパを指名したため、紀元前21年に離婚させられていた。2人の間にはルキウス、ガイウス(もしくはユッルス)、ユッラ・アントニアの3人の子が生まれた。この内、ガイウス(もしくはユッルス)は恐らく若くして亡くなったと思われる。
ユッルスは紀元前13年にプラエトル、紀元前10年にはコンスル、さらに紀元前7年にはアジア属州総督に就任するなど、アウグストゥスからの尊重を受けていた[1][2]。またユッルスもアウグストゥスのために、ガリアでの戦勝を称える詩を書こうとしていたとホラティウスが言及している[3]。ユッルスは詩人でもあり、12編の詩を書いたことが紀元前13年以前に「Diomedia」に記録されており、これは現在まで残っている[4]。
アウグストゥスのために築かれた祭壇であるアラ・パキスの北壁には皇帝一族の姿が彫られているが、ユッルスはその一員に加えられている。
醜聞と死
しかし、いつからかは定かではないが、ユッルスはアウグストゥスの娘ユリアと不倫の関係を結ぶこととなる。ユリアはアグリッパが紀元前12年に死ぬと、義兄にあたるティベリウスとの結婚を強いられたものの、間もなく夫婦関係は破綻を迎えた。ユリアは自身の欲求を満たさないティベリウスとの離婚を熱望し、そしてそんな彼女を受け入れたのがユッルスだった。
紀元前8年、ティベリウスはユリアと、彼女とアグリッパとの間に生まれた5人の子供たちを残してローマを去った。立場に不安を感じたユリアは子供たち、特にアウグストゥスの後継者であるガイウス、ルキウスの後ろ楯を求めて、ユッルスに接近した。
同時代、そして近代の歴史家が共通して示唆しているところでは、ユッルスはアウグストゥスに対する陰謀を企み[5]、ユリアとの結婚、そしてあわよくばガイウスとルキウスが成年に達するまで、一種の摂政政治を行うことを望んでいた[6]。もっともユリアは、父アウグストゥスと自身の息子たちを危険にさらそうとは思っていなかった。彼女が目論んだのは、ティベリウスとの離婚と、ユッルスを息子たちの後見人にすることだけだっただろう[7]。
2人の関係は紀元前2年に終わりを迎えた。アウグストゥスがユリアの放埒な性関係に対して動き出し、ユッルスが彼女の最も重要な愛人であることが白日の下に晒されたのである。ユリアと関係を持った他の男たちは国外追放に処されたが、ユッルスのみは外患罪で死を宣告された。その直後、ユッルスは自殺した。
親族関係
同母兄にマルクス・アントニウス・アンテュッルス、異父姉にアウグストゥスの最初の妻であるクロディア・プルケラ、異母妹(小オクタウィアの子)に大アントニアと小アントニア、異母弟妹(クレオパトラ7世の子)にアレクサンドロス・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・フィラデルフォスがいる。また小オクタウィアの子のマルクス・クラウディウス・マルケッルス、自身の妻でもある大マルケッラ、小マルケッラ、およびクレオパトラの子のカエサリオンとは義理の兄妹関係にある。
アウグストゥスから見れば義理の甥に当たり、また4代皇帝クラウディウスの母方の伯父である。他にも大アントニア、小アントニアを通じ多数のユリウス・クラウディウス朝の皇族たちと親類関係にある。
子孫
68年からの内戦でウェスパシアヌスの最大の支持者となり、イタリアに進軍、69年の10月にベドリアクムの戦いでアウルス・ウィテッリウスの軍を打ち破ったマルクス・アントニウス・プリムス(20年~35年の間 - 81年以降)はユッルスの長男ルキウスの息子もしくは孫の可能性がある(Wellesley, Kenneth (2002). Year of the Four Emperors. Roman Imperial Biographies )。プリムスの妹にアントニア・ポストゥマ(34年生まれ)という女性がいたという。この場合、プリムスとアントニア・ポストゥマはユッルスの孫もしくは曾孫、ユッルスの父マルクス・アントニウスの曾孫もしくは玄孫となる。これが事実なら、マルクス・アントニウス自死から少なくとも約100年後の西暦1世紀後半までアントニウス家男系の血統は存続していることになる。
家系図
出典
- ^ ウェッレイウス・パテルクルス 2.100
- ^ Syme, Ronald, Augustan History, p398.
- ^ ホラティウス, Odes 4.2 (Pindarum quisquis studet aemulari, Iulle)
- ^ Kenney, E.J, Clausen, Clausen, W.J. The Cambridge History of Classical Literature(1983) p187. ISBN 0521273730
- ^ LV.10.12-16
- ^ カッシウス・ディオ 55.10.15
- ^ Levick, Barbara, Tiberius the Politician, p26.