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'''高 師重'''(こう の もろしげ)は、[[鎌倉時代]]から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[足利氏]]の家臣。 |
'''高 師重'''(こう の もろしげ)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[足利氏]]の家臣。[[高師直]]の父。 |
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父の後を継いで[[足利貞氏]]・[[足利尊氏|尊氏]]に仕える。 |
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父は[[足利家時]]が[[自害]]した際の置文を預かった高師氏。 |
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== 脚注 == |
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2020年7月25日 (土) 04:21時点における版
時代 | 鎌倉時代~南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 建武3年/延元元年(1336年)? |
主君 | 足利貞氏、足利尊氏 |
氏族 | 高氏 |
父母 | 父:高師氏 |
兄弟 | 師行、師春、師信、定義、惟義、稲荷女房 |
子 | 師直、師泰、重茂 |
高 師重(こう の もろしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。足利氏の家臣。高師直の父。
生涯
正安3年(1301年)12月には師重が執事として活動していたが、徳治3年(1308年)には兄弟の師行が執事として活動していて、元応2年(1320年)には再び師重が執事として活動していて、その後は長幸康と継母観阿・子息師連の相論に対し裁許を下すなど、足利家の側近として活躍していた。
元弘3年(1333年)までには子の師直に惣領の地位を譲っているが、これが原因で師直らと、高氏の嫡流の座を彼らに奪われた(一説によると、師秋の父師行は師重の兄)甥の高師秋との間で確執が生まれ、師秋は観応の擾乱で師直に与せず、直義側についたともいわれる。
建武3年/延元元年(1336年)6月、摂津湊川で楠木正成らを破って入洛した後、比叡山に籠った後醍醐天皇方を攻撃し西坂本側の総大将となったが、討死したとされる。 康永2年/興国4年(1343年)5月14日に没したとするものもある。