「高師重」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
7行目: 7行目:
| 時代 = [[鎌倉時代]]~[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]
| 時代 = [[鎌倉時代]]~[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]
| 生誕 = 不明
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[建武]]3年/[[延元]]元年[[旧暦6月]]([[1336年]][[7月]])
| 死没 = [[建武]]3年/[[延元]]元年([[1336年]])
| 改名 =
| 改名 =
| 別名 =
| 別名 =
17行目: 17行目:
| 氏族 = [[高氏]]
| 氏族 = [[高氏]]
| 父母 = 父:[[高師氏]]
| 父母 = 父:[[高師氏]]
| 兄弟 = [[高師行|師行]]
| 兄弟 = [[高師行|師行]]、[[高師春|師春]]、[[高師信|師信]]、[[大多和定義|定義]]、[[高惟義|惟義]]、稲荷女房
| 妻 =
| 妻 =
| 子 = [[高師直|師直]]、[[高師泰|師泰]]、[[高重茂|重茂]]
| 子 = [[高師直|師直]]、[[高師泰|師泰]]、[[高重茂|重茂]]
}}
}}
'''高 師重'''(こう の もろしげ)は、[[鎌倉時代]]から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[足利氏]]の家臣。
'''高 師重'''(こう の もろしげ)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[足利氏]]の家臣。[[高師直]]の父


== 生涯 ==
== 生涯 ==
父の後を継いで[[足利貞氏]]・[[足利尊氏|尊氏]]に仕える。
父は[[足利家時]]が[[自害]]した際の置文を預かった高師氏。


[[正安]]3年([[1301年]])12月には師重が[[執事]]として活動していたが、[[徳治]]3年([[1308年]])には兄弟の[[高師行|師行]]が執事として活動していて、[[元応]]2年([[1320年]])には再び師重が執事として活動していて、その後は[[長幸康]]と継母観阿・子息[[長師連|師連]]の相論に対し裁許を下すなど、足利家の[[側近]]として活躍していた。
[[足利貞氏]]・[[足利尊氏|尊氏]]に仕える。[[建武]]3年/[[延元]]元年([[1336年]])6月、[[摂津]][[湊川]]で[[楠木正成]]らを破って入洛した後、[[比叡山]]に籠った[[後醍醐天皇]]方を攻撃し西[[坂本 (大津市)|坂本]]側の[[総大将]]となったが、討死したとされる。

[[康永]]2年/[[興国]]4年([[1343年]])に没したとするものもある。
[[元弘]]3年([[1333年]])までには子の師直に[[惣領]]の地位を譲っているが、これが原因で師直らと、[[高氏]]の嫡流の座を彼らに奪われた(一説によると、師秋の父師行は師重の兄)甥の[[高師秋]]との間で確執が生まれ、師秋は[[観応の擾乱]]で師直に与せず、[[足利直義|直義]]側についたともいわれる。

[[建武]]3年/[[延元]]元年([[1336年]])6月、[[摂津]][[湊川]]で[[楠木正成]]らを破って入洛した後、[[比叡山]]に籠った[[後醍醐天皇]]方を攻撃し西[[坂本 (大津市)|坂本]]側の[[総大将]]となったが、討死したとされる。
[[康永]]2年/[[興国]]4年([[1343年]])5月14日に没したとするものもある。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist}}


{{デフォルトソート:こう の もろし}}
{{デフォルトソート:こう の もろし}}
[[Category:鎌倉時代の人物]]
[[Category:南北朝時代の武将]]
[[Category:南北朝時代の武将]]
[[Category:高氏|もろし]]
[[Category:高氏|もろし]]
[[Category:南北朝時代に戦死した人物]]
[[Category:南北朝時代に戦死した人物]]
[[Category:1336年没]]
[[Category:1336年没]]

2020年7月25日 (土) 04:21時点における版

 
高 師重
時代 鎌倉時代南北朝時代
生誕 不明
死没 建武3年/延元元年(1336年)?
主君 足利貞氏足利尊氏
氏族 高氏
父母 父:高師氏
兄弟 師行師春師信定義惟義、稲荷女房
師直師泰重茂
テンプレートを表示

高 師重(こう の もろしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将足利氏の家臣。高師直の父。

生涯

父の後を継いで足利貞氏尊氏に仕える。

正安3年(1301年)12月には師重が執事として活動していたが、徳治3年(1308年)には兄弟の師行が執事として活動していて、元応2年(1320年)には再び師重が執事として活動していて、その後は長幸康と継母観阿・子息師連の相論に対し裁許を下すなど、足利家の側近として活躍していた。

元弘3年(1333年)までには子の師直に惣領の地位を譲っているが、これが原因で師直らと、高氏の嫡流の座を彼らに奪われた(一説によると、師秋の父師行は師重の兄)甥の高師秋との間で確執が生まれ、師秋は観応の擾乱で師直に与せず、直義側についたともいわれる。

建武3年/延元元年(1336年)6月、摂津湊川楠木正成らを破って入洛した後、比叡山に籠った後醍醐天皇方を攻撃し西坂本側の総大将となったが、討死したとされる。 康永2年/興国4年(1343年)5月14日に没したとするものもある。

脚注