「バサラブ家」の版間の差分
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|surname = バサラブ家 |
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⚫ | '''バサラブ家'''または'''バサラブ朝''' ([[英語]]: House of Basarab、またはBazarab、Bazaraadとも綴る。{{Lang-ro|Dinastia Basarabilor}}) は、[[ワラキア]][[公国]]の成立に重要な役割を果たし、ワラキア公を輩出した家系である。モルダヴィア公を輩出したボグダン=ムシャト家とも血縁がある。ワラキア公国は[[選挙君主制]]を採っており、公はバサラブ家の男子成員の中から[[ボヤール]]により選ばれた (多くの場合、候補者はその軍事力を背景として選ばれた)。1436年にアレクサンドル1世アルデアの治世が終わると、バサラブ家は有力な分家である[[ダネシュティ家]]とドラクレシュティ家が互いに自らの正当性を主張しあって分裂した。後にダネシュティ家の男系子孫が絶え、代わりにクラヨヴェシュティ家がこの争いに加わり、ネアゴエ・バサラブ、マテイ・バサラブ、コンスタンティン・シェルバン、シェルバン・カンタクジノ、コンスタンティン・ブルンコヴェアヌらが公位を争った。 |
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⚫ | '''バサラブ家'''または'''バサラブ朝''' ([[英語]]: House of Basarab、またはBazarab、Bazaraadとも綴る。{{Lang-ro|Dinastia Basarabilor}}) は、[[ワラキア]][[公国]]の成立に重要な役割を果たし、ワラキア公を輩出した家系である。モルダヴィア公を輩出したボグダン=ムシャト家とも血縁がある。ワラキア公国は[[選挙君主制]]を採っており、公はバサラブ家の男子成員の中から[[ボヤール]]により選ばれた (多くの場合、候補者はその軍事力を背景として選ばれた)。1436年にアレクサンドル1世アルデアの治世が終わると、バサラブ家は有力な分家である[[ダネシュティ家]]と[[ドラクレシュティ家]]が互いに自らの正当性を主張しあって分裂した。後にダネシュティ家の男系子孫が絶え、代わりにクラヨヴェシュティ家がこの争いに加わり、ネアゴエ・バサラブ、マテイ・バサラブ、コンスタンティン・シェルバン、シェルバン・カンタクジノ、コンスタンティン・ブルンコヴェアヌらが公位を争った。 |
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ワラキア公としてよく知られる人物として、[[ミルチャ1世]]、ダン2世、[[ヴラド2世]]、[[ヴラド・ツェペシュ|ヴラド3世]] (ヴラド・ツェペシュ)、ヴラド僧公、ラドゥ4世、アフマツィのラドゥらがいる。 |
ワラキア公としてよく知られる人物として、[[ミルチャ1世]]、ダン2世、[[ヴラド2世]]、[[ヴラド・ツェペシュ|ヴラド3世]] (ヴラド・ツェペシュ)、ヴラド僧公、ラドゥ4世、アフマツィのラドゥらがいる。 |
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== 起源 == |
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家名は、[[ハンガリー王国]]からワラキア公国独立を勝ち取った[[バサラブ1世]]にちなむ。 |
家名は、[[ハンガリー王国]]からワラキア公国独立を勝ち取った[[バサラブ1世]]にちなむ。 |
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[[ファイル:House_of_Draculesti_Arms.svg|右|サムネイル|ドラクレシュティの家の紋章 ]] |
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この名前は、[[クマン語 (チュルク)|クマン語]]またはペチェネグ語などの[[チュルク語族]]の言語<ref>S. Brezeanu, ''Identități și solidarități medievale. Controverse istorice'', pages 135–138 and 371–386.</ref><ref name="https://books.google.com/books?id=0xNYmFwyCdkC&pg=PA129&lpg=PA129&dq=basarab+i+cuman&source=bl&ots=xLm_uAabZ5&sig=tiRAVXdy9CzwJxQ1fVTOWSfGRgU&hl=sv&sa=X&ei=Xux8VIr1KcS9ygO9zoLQDQ&ved=0CFYQ6AEwBzgK#v=onepage&q=basarab%20i%20cuman&f=false">{{Cite book|last=Rădvan|first=Laurențiu|title=At Europe's Borders: Medieval Towns in the Romanian Principalities|date=2010|page=129}}</ref><ref name="https://books.google.com/books?id=ANdbpi1WAIQC&pg=PA24&lpg=PA24&dq=basarab+i+cuman&source=bl&ots=tRMdnWx-DK&sig=OAOmSAZR3xOGHTTGTrNAP0L9Ol0&hl=sv&sa=X&ei=_-58VIGhBIHNygPgr4GwCg&ved=0CEsQ6AEwBjge#v=onepage&q=basarab%20i%20cuman&f=false">{{Cite book|last=Sedlar|first=Jean W|title=East Central Europe in the Middle Ages, 1000-1500|date=2011|page=24}}</ref><ref name="https://books.google.com/books?id=QKhuxLdnYhMC&pg=PA51&lpg=PA51&dq=basarab+i+cuman&source=bl&ots=1GbKjsVWNW&sig=UjuHR4oGI-OWwo4Xy3Nvti5ej7c&hl=sv&sa=X&ei=2_B8VIm5CcLhywO524LICg&ved=0CFMQ6AEwBjgo#v=onepage&q=basarab%20i%20cuman&f=false">{{Cite book|last=Grumeza|first=Ion|title=The Roots of Balkanization: Eastern Europe C.E. 500-1500|date=2010|page=51}}</ref>に由来し、「父なる支配者」という意味であったとする説がある。''Basar'' は「統治する」という動詞の現在分詞であり、[[キプチャク語群]]には時代によらず現れる語であるためである。[[ルーマニア人]]で歴史家のニコラ・イオルガは、名前の後半部である -''aba'' (「父」) は名誉称号であり、テルテロバ (''Terteroba'')、アスラナパ (''Arslanapa'')、ウルソバ (''Ursoba'') などの多くのクマン人 |
この名前は、[[クマン語 (チュルク)|クマン語]]またはペチェネグ語などの[[チュルク語族]]の言語<ref>S. Brezeanu, ''Identități și solidarități medievale. Controverse istorice'', pages 135–138 and 371–386.</ref><ref name="https://books.google.com/books?id=0xNYmFwyCdkC&pg=PA129&lpg=PA129&dq=basarab+i+cuman&source=bl&ots=xLm_uAabZ5&sig=tiRAVXdy9CzwJxQ1fVTOWSfGRgU&hl=sv&sa=X&ei=Xux8VIr1KcS9ygO9zoLQDQ&ved=0CFYQ6AEwBzgK#v=onepage&q=basarab%20i%20cuman&f=false">{{Cite book|last=Rădvan|first=Laurențiu|title=At Europe's Borders: Medieval Towns in the Romanian Principalities|date=2010|page=129}}</ref><ref name="https://books.google.com/books?id=ANdbpi1WAIQC&pg=PA24&lpg=PA24&dq=basarab+i+cuman&source=bl&ots=tRMdnWx-DK&sig=OAOmSAZR3xOGHTTGTrNAP0L9Ol0&hl=sv&sa=X&ei=_-58VIGhBIHNygPgr4GwCg&ved=0CEsQ6AEwBjge#v=onepage&q=basarab%20i%20cuman&f=false">{{Cite book|last=Sedlar|first=Jean W|title=East Central Europe in the Middle Ages, 1000-1500|date=2011|page=24}}</ref><ref name="https://books.google.com/books?id=QKhuxLdnYhMC&pg=PA51&lpg=PA51&dq=basarab+i+cuman&source=bl&ots=1GbKjsVWNW&sig=UjuHR4oGI-OWwo4Xy3Nvti5ej7c&hl=sv&sa=X&ei=2_B8VIm5CcLhywO524LICg&ved=0CFMQ6AEwBjgo#v=onepage&q=basarab%20i%20cuman&f=false">{{Cite book|last=Grumeza|first=Ion|title=The Roots of Balkanization: Eastern Europe C.E. 500-1500|date=2010|page=51}}</ref>に由来し、「父なる支配者」という意味であったとする説がある。''Basar'' は「統治する」という動詞の現在分詞であり、[[キプチャク語群]]には時代によらず現れる語であるためである。[[ルーマニア人]]で歴史家のニコラ・イオルガは、名前の後半部である -''aba'' (「父」) は名誉称号であり、テルテロバ (''Terteroba'')、アスラナパ (''Arslanapa'')、ウルソバ (''Ursoba'') などの多くのクマン人の名前に表れる、と主張している。 |
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バサラブの父トコメリウスも、13世紀のクマン人および[[タタール人]]の間で一般的だった ''Toq-tämir という名前を持っていた |
バサラブの父トコメリウスも、13世紀のクマン人および[[タタール人]]の間で一般的だった ''Toq-tämir'' という名前を持っていた。ロシアの[[年代記]]では、1295年頃[[クリミア半島|クリミア]]に[[モンゴル帝国]]の王子トクトマー (''Toktomer'') がいた、とされており、トコメリウスはこの人物であると比定されている。 |
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ただし、名前の起源をクマン語またはペチェネグ語に求めるのは推測に過ぎず、歴史家の間で論争になっている。同時代の人々はバサラブ家は[[ヴラフ人]]であると考えており<ref name="Vasary">{{Cite book|last=Vásáry|first=István|title=Cumans and Tatars: Oriental Military in the Pre-Ottoman Balkans, 1185-1365|url=https://books.google.com/books?id=7DJWyg97IggC&lpg=PA153&dq=a%20Vlakh%3B%20King%20Charles%20I%20speaks%20of%20him%20as%20Bazarab%20infidelis%20Olacus&pg=PA153#v=onepage&q=a%20Vlakh;%20King%20Charles%20I%20speaks%20of%20him%20as%20Bazarab%20infidelis%20Olacus&f=false|accessdate=|year=2005|publisher=Cambridge University Press|isbn=9780521837569|page=153}}</ref>、ハンガリー王[[カーロイ1世]]は ''{{Lang|la|Bazarab infidelis Olacus noster}}'' (「バサラブ、 危険極まるヴラフ人」)という言葉を残している。 |
ただし、名前の起源をクマン語またはペチェネグ語に求めるのは推測に過ぎず、歴史家の間で論争になっている。同時代の人々はバサラブ家は[[ヴラフ人]]であると考えており<ref name="Vasary">{{Cite book|last=Vásáry|first=István|title=Cumans and Tatars: Oriental Military in the Pre-Ottoman Balkans, 1185-1365|url=https://books.google.com/books?id=7DJWyg97IggC&lpg=PA153&dq=a%20Vlakh%3B%20King%20Charles%20I%20speaks%20of%20him%20as%20Bazarab%20infidelis%20Olacus&pg=PA153#v=onepage&q=a%20Vlakh;%20King%20Charles%20I%20speaks%20of%20him%20as%20Bazarab%20infidelis%20Olacus&f=false|accessdate=|year=2005|publisher=Cambridge University Press|isbn=9780521837569|page=153}}</ref>、ハンガリー王[[カーロイ1世]]は ''{{Lang|la|Bazarab infidelis Olacus noster}}'' (「バサラブ、 危険極まるヴラフ人」)という言葉を残している。 |
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また、イギリス女王[[エリザベス2世]]は[[ハンガリー]]の伯爵令嬢[[レーデイ・クラウディア]]を通じてスタンカ・オブ・バサラブ (1518?-1601) の子孫である (レーデイ・クラウディアの孫[[メアリー・オブ・テック|ヴィクトリア・メアリー]]は、エリザベス2世の祖父[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の妃)。エリザベス2世は、串刺公として知られるヴラド3世 (ヴラド・ツェペシュ) の15代の孫にあたる。 |
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2020年7月5日 (日) 15:14時点における版
バサラブ家 Dinastia Basarabilor | |
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王朝 | |
バサラブ家の紋章 | |
国 | ワラキア公国 |
創設 | 1310年 |
家祖 | バサラブ1世 |
最後の当主 |
モイゼ・ヴォーダ (ダネシュティ家) ミハイ勇敢公 (ドラクレシュティ家) |
滅亡 |
1529年 (ダネシュティ家) 1601年 (ドラクレシュティ家) |
民族 | ヴラフ人 |
分家 |
ダネシュティ家 (ダン1世) ドラクレシュティ家 (ヴラド2世) |
バサラブ家またはバサラブ朝 (英語: House of Basarab、またはBazarab、Bazaraadとも綴る。ルーマニア語: Dinastia Basarabilor) は、ワラキア公国の成立に重要な役割を果たし、ワラキア公を輩出した家系である。モルダヴィア公を輩出したボグダン=ムシャト家とも血縁がある。ワラキア公国は選挙君主制を採っており、公はバサラブ家の男子成員の中からボヤールにより選ばれた (多くの場合、候補者はその軍事力を背景として選ばれた)。1436年にアレクサンドル1世アルデアの治世が終わると、バサラブ家は有力な分家であるダネシュティ家とドラクレシュティ家が互いに自らの正当性を主張しあって分裂した。後にダネシュティ家の男系子孫が絶え、代わりにクラヨヴェシュティ家がこの争いに加わり、ネアゴエ・バサラブ、マテイ・バサラブ、コンスタンティン・シェルバン、シェルバン・カンタクジノ、コンスタンティン・ブルンコヴェアヌらが公位を争った。
ワラキア公としてよく知られる人物として、ミルチャ1世、ダン2世、ヴラド2世、ヴラド3世 (ヴラド・ツェペシュ)、ヴラド僧公、ラドゥ4世、アフマツィのラドゥらがいる。
起源
家名は、ハンガリー王国からワラキア公国独立を勝ち取ったバサラブ1世にちなむ。
この名前は、クマン語またはペチェネグ語などのチュルク語族の言語[1][2][3][4]に由来し、「父なる支配者」という意味であったとする説がある。Basar は「統治する」という動詞の現在分詞であり、キプチャク語群には時代によらず現れる語であるためである。ルーマニア人で歴史家のニコラ・イオルガは、名前の後半部である -aba (「父」) は名誉称号であり、テルテロバ (Terteroba)、アスラナパ (Arslanapa)、ウルソバ (Ursoba) などの多くのクマン人の名前に表れる、と主張している。
バサラブの父トコメリウスも、13世紀のクマン人およびタタール人の間で一般的だった Toq-tämir という名前を持っていた。ロシアの年代記では、1295年頃クリミアにモンゴル帝国の王子トクトマー (Toktomer) がいた、とされており、トコメリウスはこの人物であると比定されている。
ただし、名前の起源をクマン語またはペチェネグ語に求めるのは推測に過ぎず、歴史家の間で論争になっている。同時代の人々はバサラブ家はヴラフ人であると考えており[5]、ハンガリー王カーロイ1世は Bazarab infidelis Olacus noster (「バサラブ、 危険極まるヴラフ人」)という言葉を残している。
系譜
遺産
バサラブの名は、現在のモルドバ共和国およびウクライナの一部を指すベッサラビアや、ルーマニアのバサラビ、モルドバ共和国のバサラベアスカ、ブルガリアのバサルボヴォなどといった地名に残っている。
また、イギリス女王エリザベス2世はハンガリーの伯爵令嬢レーデイ・クラウディアを通じてスタンカ・オブ・バサラブ (1518?-1601) の子孫である (レーデイ・クラウディアの孫ヴィクトリア・メアリーは、エリザベス2世の祖父ジョージ5世の妃)。エリザベス2世は、串刺公として知られるヴラド3世 (ヴラド・ツェペシュ) の15代の孫にあたる。
参考文献
- ^ S. Brezeanu, Identități și solidarități medievale. Controverse istorice, pages 135–138 and 371–386.
- ^ Rădvan, Laurențiu (2010). At Europe's Borders: Medieval Towns in the Romanian Principalities. p. 129
- ^ Sedlar, Jean W (2011). East Central Europe in the Middle Ages, 1000-1500. p. 24
- ^ Grumeza, Ion (2010). The Roots of Balkanization: Eastern Europe C.E. 500-1500. p. 51
- ^ Vásáry, István (2005). Cumans and Tatars: Oriental Military in the Pre-Ottoman Balkans, 1185-1365. Cambridge University Press. p. 153. ISBN 9780521837569
- Vasary, Istvan, Cumans and Tatars, Cambridge University Press, 2005, pp. 149–155
外部リンク
- Marek. “Basarab genealogy”. Genealogy.EU. 2006年8月3日閲覧。
- Marek. “Related Muşatins genealogy”. Genealogy.EU. 2012年8月16日閲覧。