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'''三浦 義明'''(みうら よしあき)は、[[平安時代]]末期の[[相模国]][[三浦郡]][[衣笠城]]の武将。三浦荘(現[[神奈川県]][[横須賀市]])の[[在庁官人]]。[[桓武平氏]]の[[平良文]]を祖とする[[三浦氏]]の一族。相模[[介]]・[[三浦義継]]の子。[[三浦義村]]の祖父。
'''三浦 義明'''(みうら よしあき)は、[[平安時代]]末期の[[相模国]][[三浦郡]][[衣笠城]]の武将。三浦荘(現[[神奈川県]][[横須賀市]])の[[在庁官人]]。[[桓武平氏]]の[[平良文]]を祖とする[[三浦氏]]の一族。相模[[介]]・[[三浦義継]]の子。[[和田義盛]]、[[三浦義村]]の祖父。


== 概要 ==
== 概要 ==

2020年3月30日 (月) 05:45時点における版

 
三浦義明
三浦義明(楊洲周延『源平盛衰記』)
時代 平安時代末期
生誕 寛治6年(1092年
死没 治承4年8月27日1180年9月18日
別名 大介(仮名)
墓所 横須賀市大矢部 滿昌寺
官位 三浦介
幕府 鎌倉幕府
氏族 桓武平氏良文流、三浦氏
父母 父:三浦義継、母:笠間常宗の娘
兄弟 三浦義明津久井義行蘆名為清
岡崎義実大友経家室、中村宗平
秩父重綱の娘
杉本義宗三浦義澄大多和義久
佐原義連多々良義春長井義季
杜重行源義朝側室、畠山重能
金田頼次室、長江義景室、大河戸広行
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三浦 義明(みうら よしあき)は、平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人桓武平氏平良文を祖とする三浦氏の一族。相模三浦義継の子。和田義盛三浦義村の祖父。

概要

世襲の官である三浦介を号して天治年間(1124年 - 1126年)国務に参画し、三浦半島一帯に勢力を扶植する。多くの子女に恵まれた。

長男の杉本義宗和田氏の祖、次男の義澄は父の後嗣となり、また娘の一人は都から東国に進出した源義朝の側室となったという。以降、相模国における義朝の覇権確立の有力な後ろ盾となり、久寿2年(1155年)に義朝の子・義平が叔父の義賢と戦った大蔵合戦では、後方からこれを支援したとされる(一説によると義平の母は義明の娘とも言われる)。

最期

治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると、一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃する。しかし、途中で石橋山の戦いにおける頼朝の敗戦を聞き、引き返して篭城。ほどなくして敵方に参加していた畠山重忠率いる軍勢と衣笠城合戦となり、一族郎党を率いて奮戦する。だが、最終的には刀折れ矢尽き、義澄以下一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死した。享年89。

なお、敵将の畠山重忠の母は義明の娘であり、義明から見ると外孫であった。このため重忠は衣笠城攻撃を行うのは本意でなかったが、父の畠山重能大番役で在京していたため、平氏方として働かざるを得なかったとされる。

史跡

衣笠城合戦に敗れた三浦義明は松の木の下で自害したと言われ、横須賀市大矢部の「腹切松公園」内に史跡が設けられている[1]

画像集

脚注

  1. ^ 三浦大介腹切の松鎌倉タイム

関連項目

脚注

先代
三浦義継
三浦氏歴代当主
三浦介
次代
三浦義澄