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正誠は藩主権力を強めるため、[[万治]]3年([[1660年]])5月には家老の[[片岡理兵衛]]一族を殺害する([[片岡騒動]])。さらに税制の整備や検地、[[永松銅山]]の開発や寺社建立、[[城下町]]の建設、家臣の新規召し抱えなどの改革を多数行ない、また、治世が60年の長きにわたったことから藩政が安定化し、新庄藩は最盛期を迎えた。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政の悪化が見え始める。[[宝永]]7年([[1710年]])2月16日、家督を養子の[[戸沢正庸|正庸]]に譲って隠居した。享保7年(1722年)2月3日、83歳で死去した。 |
正誠は藩主権力を強めるため、[[万治]]3年([[1660年]])5月には家老の[[片岡理兵衛]]一族を殺害する([[片岡騒動]])。さらに税制の整備や検地、[[永松銅山]]の開発や寺社建立、[[城下町]]の建設、家臣の新規召し抱えなどの改革を多数行ない、また、治世が60年の長きにわたったことから藩政が安定化し、新庄藩は最盛期を迎えた。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政の悪化が見え始める。[[宝永]]7年([[1710年]])2月16日、家督を養子の[[戸沢正庸|正庸]]に譲って隠居した。享保7年(1722年)2月3日、83歳で死去した。 |
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『[[土芥寇讎記]]』では、悪くはないが、[[男色]]や[[美童]]好きを止めたほうが良い君主になれる、と評されている。 |
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== 脚注 == |
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2019年6月15日 (土) 16:45時点における版
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 |
寛永17年10月13日(1640年11月26日)[1] または同年7月13日(8月29日)とも[2] |
死没 | 享保7年2月3日(1722年3月19日) |
改名 | 千代鶴(幼名)→正誠 |
戒名 | 大輝院鳳山徳公 |
墓所 | 山形県新庄市の桂岳寺 |
官位 | 従五位下、能登守、上総介 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出羽国新庄藩主 |
氏族 | 戸沢氏 |
父母 |
父:戸沢政盛 母:於佐古(久照院・楢岡光信の娘) |
兄弟 | 戸沢定盛正室、加藤泰興継室、正誠 |
妻 | 正室:浅野光晟の娘 |
子 |
正武(三男)、娘(久留島通政正室)、 娘(青木重矩正室)、須和子(戸沢正成正室) 養子:正庸 |
戸沢 正誠(とざわ まさのぶ)は、出羽国新庄藩の第2代藩主。初代藩主・戸沢政盛の次男。
経歴
慶安元年(1648年)、父が死去すると、正誠が若年であることと末期相続を理由に最初は家督相続を認められず、慶安3年(1650年)8月7日になってようやく相続した。このあたりに幕府の外様大名に対する対応が現れていると思われる。
正誠は藩主権力を強めるため、万治3年(1660年)5月には家老の片岡理兵衛一族を殺害する(片岡騒動)。さらに税制の整備や検地、永松銅山の開発や寺社建立、城下町の建設、家臣の新規召し抱えなどの改革を多数行ない、また、治世が60年の長きにわたったことから藩政が安定化し、新庄藩は最盛期を迎えた。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政の悪化が見え始める。宝永7年(1710年)2月16日、家督を養子の正庸に譲って隠居した。享保7年(1722年)2月3日、83歳で死去した。
『土芥寇讎記』では、悪くはないが、男色や美童好きを止めたほうが良い君主になれる、と評されている。