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[[File:Baekje Diadem King 2.jpg|thumb|right|200px|百済の金冠、武寧王陵の副葬品の一部。]]
[[ファイル:Assemblée_des_fils_de_Djengiz_Khân.jpg||サムネイル|196x256ピクセル|オゴデイ・ウルスの始祖オゴデイと息子達]]
'''[[百済]]'''(くだら/ひゃくさい、ペクチェ、旧字体:'''百濟'''、[[4世紀]]前半-[[660年]])は、古代の[[朝鮮半島]]西部、および南西部にあった[[国家]]。
'''[[オゴデイ・ウルス]]'''('''Ögödei ulus''')とは、[[チンギス・カン]]の第3子で、[[モンゴル帝国]]第2代皇帝となった[[オゴデイ]]を始祖とする王家によって支配された[[ウルス]]である。13世紀初頭に成立し、15世紀初頭までは残存していたとされる。


百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、{{JIS2004フォント|泗沘}}時代(538年から)に分類される。漢城期には現在の[[京畿道]]を中心としていたが、[[高句麗]]の攻撃によって首都[[漢城]]が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の[[忠清南道]]にあった[[熊津]](現:[[公州市|公州]])へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、[[武寧王]]が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の[[伽耶]](加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都として{{JIS2004フォント|泗沘}}を建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に[[新羅]]、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]と呼ばれている。
かつては類似した概念として「'''オゴデイ・ハン国'''(Ögödei Khanate)」という呼称も用いられていたが、研究の進展により現在ではほとんど用いられることがない。「オゴデイ・ウルス」及び「オゴデイ・ハン国」という呼称はともに創始者オゴデイの名から取られているが、当時の[[史料]]にある用語ではなく、[[歴史家]]による通称である。

中国の[[南朝 (中国)|南朝]]と密接な関係を結び、[[仏教]]や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は[[高麗]]時代に編纂された歴史書『[[三国史記]]』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。[[宋山里古墳群]]にある[[武寧王陵]]は百済の最も著名な墳墓で、[[20世紀]]に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。

中国で南北朝時代が終焉を迎え、[[隋]]が成立するといち早く関係を結んだが、ついで[[唐]]が成立すると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅を支援して百済を攻撃した。これによって[[660年]]に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは[[倭国]](日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、[[663年]]の[[白村江の戦い]]における敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。

2019年5月29日 (水) 16:20時点における最新版

百済の金冠、武寧王陵の副葬品の一部。

百済(くだら/ひゃくさい、ペクチェ、旧字体:百濟4世紀前半-660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家

百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗沘時代(538年から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都として泗沘を建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。

中国の南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。

中国で南北朝時代が終焉を迎え、が成立するといち早く関係を結んだが、ついでが成立すると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。