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== 関係する人物 ==
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* [[松平昌親|松平吉品]] - 第7代福井藩藩主。養浩館庭園の造営を指示する<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82-83</ref>
* [[松平昌親|松平吉品]] - 第7代福井藩藩主。養浩館庭園の造営を指示する<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82-83</ref>
* 山田宗偏 - 作庭の設計をしたと伝えられるが、残存する記録では関与した傍証が無いとされる<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.83</ref><ref>若越郷士研究第二二巻 六号(一二十七号) 福井県郷土誌懇談会</ref>
* 山田宗偏 - 作庭の設計をしたと伝えられるが、残存する記録では関与した傍証が無いとされる<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.83</ref><ref>若越郷士研究第二二巻 六号(一二十七号) 福井県郷土誌懇談会</ref>
* 結城秀康 - 福井藩初代藩主<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82</ref>
* 結城秀康 - 福井藩初代藩主<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82</ref>


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==

2019年5月25日 (土) 14:09時点における版

養浩館庭園
Youroukanteien
徽軫灯籠と霞ヶ池
分類 回遊式林泉庭園
所在地
面積 総面積 約9500㎡
前身 御泉水屋敷
現況 (開園日3月1日~11月5日9時~17時)   (休園日12月28日~1月4日)
駐車場 普通乗用車のみ
バリアフリー 車輪カバー(無料貸し出し)屋敷入口にスロープ設置
事務所 福井市立郷土歴史博物館
事務所所在地 福井県福井市宝永3丁目12-1
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養浩館庭園(ようこうかんていえん)は、福井県福井市宝永三丁目にある日本庭園大名庭園)。国の名勝に指定[1]されている。

養浩館西門
庭園
庭園
櫛形ノ間

概要

養浩館庭園は福井城本丸の北約400メートルの場所に位置している。旧福井藩松平家の別邸で、江戸時代には「お泉水(せんすい)屋敷」と呼ばれていた。成立の経緯ははっきりしないが、1656年明暦2年)で、第4代藩主松平光通の側室が、この屋敷にて子息(権蔵。のちの松平直堅)を産んだ、とされているのが現在のところ最も古く確認されている[2]。現在の規模の建物と回遊式林泉庭園が完成したのは1699年元禄12年)で、その後拡大と縮小を繰り返した。1708年宝永5年)、第7代藩主松平吉品が御泉水屋敷を改築し、同時に自らの隠居屋敷として敷地を増設した上で新建造物を増築したが、吉品死後に増築部分は縮小されたとされる。戦前まで残っていた建物は、この改築時の屋敷であろうと推測される。「養浩館」の名前は明治になってから、同屋敷を所有していた元藩主の松平春嶽が名付けたものである。

1922年大正11年)、敷地内に宝永小学校が建てられた。1945年昭和20年)7月19日福井空襲で建物は消失している。戦後は1947年(昭和22年)に宝永小学校が移転し、跡地に市営テニスコートや福井県立図書館が存在した(県立図書館は同市城東に移転後、現在地の同市下馬町に移転)。

2004年平成16年)には、足羽山から隣接地に新築移転となった福井市立郷土歴史博物館とともに、お泉水公園など周辺の整備が完了した。

米国の日本庭園専門雑誌『数寄屋リビング(ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング)』が毎年行っている日本庭園ランキングには、2006年以来[3]登場している。2008年から2010年にかけては3年連続で第3位に選ばれる[4]など、高い評価がなされている[5]

歴史

  • 現在の養浩館庭園の原型にあたるものは、江戸時代には福井藩主松平家の別邸として「お泉水(せんすい)屋敷」「泉水第」(せんすいだい)と呼ばれていた[6]
  • 資料上で最も古く確認できるのは、1656年(明暦2)に藩主松平光通の側室が、子息(権蔵、のちの松平直堅)を産んだとされるのがこの屋敷である[7]
  • 現在の規模の建物と回遊式林泉庭園が完成したのは1699年(元禄12年)で、その後拡大と縮小を繰り返した。1708年(宝永5年)、代藩主松平吉品が御泉水屋敷を改築し、同時に自らの隠居屋敷として敷地を増設した上で新建造物を増築したが、吉品死後に増築部分は縮小されたとされている。
  • 明治17年8月1日 慶永公により「福井泉邸」から「養浩館」へと名称が変更される。[8]

特徴

建物

現在の建物は、戦災で焼失した当時のものを復元したもの。

1871年(明治4年)の廃藩置県で、兵部省の管轄となる。 養浩館は、建築物の全体が池に囲まれていて、一部は、建築物に池の水がかぶさっていたり、建築物の下を池の水が渡っていて、 庭園と建築物が具合よくつりあっていて、なじみやすくなるようにできている。

  • 御風呂屋伝廊下[9]
軒高  1文4寸  
  • 御檀  5寸5分
天井高 9尺4寸5分
軒高  1文2尺5寸

庭園

養浩館は、園池が大規模であったことから、「御泉水屋敷」と呼ばれていた。庭園は、回遊式の泉水で、亭と橋があり、風趣深く全国から奇石珍木を集めている。池には、多数の鯉などがゆらり泳いでいる。園池のほかに、石組や樹木などに四季折々の趣がある。養浩館は回遊式庭園であるため、その趣を感じながら散策することが可能である。明治時代には、大隈重信など、皇族のみならず、政界・財界・知名の士が来訪し、一般市民には、戦後に公開された。2016年には、アメリカの日本庭園専門誌ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニングが養浩館の庭園の調査を行い、「2016年日本庭園全国ランキング」で日本庭園第5位に選ばれた。

関係する人物

  • 松平吉品 - 第7代福井藩藩主。養浩館庭園の造営を指示する[10]
  • 山田宗偏 - 作庭の設計をしたと伝えられるが、残存する記録では関与した傍証が無いとされる[11][12]
  • 結城秀康 - 福井藩初代藩主[13]

現地情報

  • 福井県福井市宝永3-11-36[14]
  • 福井市の中心部にある[15]

アクセス

周辺

養浩館庭園の位置(日本内)
養浩館庭園
養浩館庭園

  1. ^ 養浩館(旧御泉水屋敷)庭園 - 文化遺産オンライン文化庁
  2. ^ 「国事叢記」
  3. ^ Sukiya Living Environment Rankings 2006 数寄屋生活空間 2006年度順位”. 2016年6月1日閲覧。
  4. ^ 3年連続でJOJGランキング第3位に! - 養浩館庭園
  5. ^ Sukiya Living Environment Rankings 数寄屋生活空間 順位 (2015年12月発表)”. 2016年6月1日閲覧。
  6. ^ 舟澤茂樹「御泉水邸『養浩館』の沿革について」『若越郷土研究』22-5、1977年10月
  7. ^ 『越藩史略』1975年では、万治元年の事項として掲載されている(P.162)、『国事叢記』
  8. ^ 「越前松平家家譜 慶永5」 福井県文書館資料叢書8 2011年3月発行
  9. ^ 福井建築史研究会『御泉水第の建築的研究』福井建築史研究会、1987年、11-12頁。 
  10. ^ 重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82-83
  11. ^ 重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.83
  12. ^ 若越郷士研究第二二巻 六号(一二十七号) 福井県郷土誌懇談会
  13. ^ 重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82
  14. ^ 『北陸の庭園』橋本確文堂、2000年、14-15頁。 
  15. ^ 『北陸の庭園』橋本確文堂、2000年、14-15頁。 

参考文献

  • 福井建築史研究会『御泉水第の建築的研究』福井建築史研究会 1987
  • 井原 縁『47都道府県・公園・庭園百科』丸善出版 2017
  • 堀江 喜熊『宝永のかおり』佐々木 悠 1968
  • 松原 信之『福井県謎解き散歩』新人物往来社 2012
  • 福井史教育委員会『名勝養浩館(旧御泉水屋敷)庭園保存活用計画』福井市教育委員会 2016
  • インク・インコーポレーション『庭園さんぽ』グラフィック社 2012
  • 『北陸の庭園』橋本確文堂 2000
  • 福井市教育委員会『福井城跡Ⅹ』福井市教育委員会』 2012
  • 福井市『D名勝養浩館庭Dの魅力』福井市 2016
  • 福井市教育委員会『名勝養浩館(旧御泉水屋敷)庭園保存活用計画』福井市教育委員会 2016

外部リンク

座標: 北緯36度4分6.6秒 東経136度13分27.9秒 / 北緯36.068500度 東経136.224417度 / 36.068500; 136.224417