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[[享禄]]3年([[1530年]])の[[田手畷の戦い]]では父・和泉守忠清、[[鍋島清久]]・[[鍋島清房|清房]]父子と共に出陣し、赤熊の毛と鬼面を被った奇襲部隊を率い、[[龍造寺家兼]]隊を援護した。家兼隊の戦勝に貢献して以来、家兼・[[龍造寺隆信|隆信]]2代にわたって重臣として仕えた。
[[享禄]]3年([[1530年]])の[[田手畷の戦い]]では父・和泉守忠清、[[鍋島清久]]・[[鍋島清房|清房]]父子と共に出陣し、赤熊の毛と鬼面を被った奇襲部隊を率い、[[龍造寺家兼]]隊を援護した。家兼隊の戦勝に貢献して以来、家兼・[[龍造寺隆信|隆信]]2代にわたって重臣として仕えた。


学問に秀でた文人武将とされ、[[鍋島直茂]]が幼少の頃の学問の師であったといわれ、直茂は、しばしば常延の屋敷に夜学に通ったと伝わる。
学問に秀でた文人武将とされ、[[鍋島直茂]]が幼少の頃の学問の師であったといわれ、直茂は、しばしば常延の屋敷に夜学に通ったと伝わる<ref>https://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=704</ref>


次女・彦鶴姫(後の[[陽泰院]])は、佐賀藩祖・鍋島直茂の正室となり、初代藩主・[[鍋島勝茂|勝茂]]を生んだ。
次女・彦鶴姫(後の[[陽泰院]])は、佐賀藩祖・鍋島直茂の正室となり、初代藩主・[[鍋島勝茂|勝茂]]を生んだ。

2018年9月17日 (月) 08:22時点における版

 
石井 常延
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 文亀3年(1503年
死没 天正8年12月5日1581年1月9日
別名 忠常(『寛政重修諸家譜』)
戒名 常照院殿常祝日教大神儀
墓所 佐賀県佐賀市 常照院
官位 兵部少輔または兵部大輔(受領名)
主君 千葉興常龍造寺家兼隆信
氏族 肥前石井氏藤原北家兼通流
父母 父:石井忠清、母:飯盛肥前守の娘
兄弟 常延忠家忠信、垂井某室、
山田治部少輔室、伊東家秀
正室:蓮華院(小城黒尾氏)
常忠法性院石井忠俊室)、
賢次陽泰院鍋島直茂室)、
幸佑院杉町信房室)
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石井 常延(いしい つねのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将九州千葉氏及び龍造寺氏の重臣。肥前国佐嘉郡飯盛城主。石井和泉守忠清の嫡男。母は飯盛肥前守の娘。諱は忠常とも。佐賀藩祖・鍋島直茂の岳父であり、初代藩主勝茂の外祖父にあたる。

来歴

肥前国佐嘉郡飯盛城主・石井和泉守忠清の嫡男として生まれる。実母は飯盛肥前守の娘。継母は龍造寺家純の四女であることから、龍造寺隆信鍋島直茂は義理の従弟にあたる。

長じて、肥前国小城郡主・千葉興常を烏帽子親として元服し、その偏諱を授けられて、「常延」と名乗った。正室は黒尾氏蓮華院

享禄3年(1530年)の田手畷の戦いでは父・和泉守忠清、鍋島清久清房父子と共に出陣し、赤熊の毛と鬼面を被った奇襲部隊を率い、龍造寺家兼隊を援護した。家兼隊の戦勝に貢献して以来、家兼・隆信2代にわたって重臣として仕えた。

学問に秀でた文人武将とされ、鍋島直茂が幼少の頃の学問の師であったといわれ、直茂は、しばしば常延の屋敷に夜学に通ったと伝わる[1]

次女・彦鶴姫(後の陽泰院)は、佐賀藩祖・鍋島直茂の正室となり、初代藩主・勝茂を生んだ。

天正8年(1580年)死去。享年77。

墓所は、現在の佐賀市本庄町鹿子の妙光山常照院にある。

親族

子は嫡男・刑部少輔常忠(龍造寺隆信の御馬廻衆)、長女・法性院(石井左衛門尉忠俊室)、次男・伊豆守賢次(忠張)、次女・陽泰院鍋島直茂室)、三女・幸佑院(杉町備中守信房室)の二男三女がある。

孫には石井信易信忠兄弟、石井茂成鍋島勝茂の他、慈光院(太田茂連室)、千鶴(多久安順室)、彦菊(諫早直孝室)らが、曾孫には、鍋島茂里茂賢兄弟、市姫(上杉定勝室)、鍋島忠直元茂直澄直弘直朝直長兄弟、成富長利らがある。

  1. ^ https://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=704