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== 経歴 ==
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 1985年、[[ローマ]]生まれ。[[ローマ大学]]で文学を学んだ後、[[1906年]]に[[サンタ・チェチーリア国立アカデミア]]で作曲のディプロマを取得し、その翌年にローマの[[アドリアーノ劇場]]で[[アミルカレ・ポンキエッリ|ポンキエッリ]]の《[[ジョコンダ]]》を演奏してデビューを飾りった。これが契機となって、ナポリとトリノで指揮をすることとなる。[[1912年]]、[[ナポリ]]の[[サン・カルロ劇場]]の首席指揮者になり、イタリア各地の歌劇場に客演していた。
 1985年、[[ローマ]]生まれ。[[ローマ大学]]で文学を学んだ後、[[1906年]]に[[サンタ・チェチーリア国立アカデミア]]で作曲のディプロマを取得し、その翌年にローマの[[アドリアーノ劇場]]で[[アミルカレ・ポンキエッリ|ポンキエッリ]]の《[[ジョコンダ]]》を演奏してデビューを飾りった。これが契機となって、ナポリとトリノで指揮をすることとなる。[[1912年]]、[[ナポリ]]の[[サン・カルロ劇場]]の首席指揮者になり、イタリア各地の歌劇場に客演していた。

 [[1928年]]に創設されたばかりのフィレンツェ市立管弦楽団(現[[フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団]])の音楽監督を任された。[[1933年]]には、このオーケストラのコンサートを[[フィレンツェ五月音楽祭]]へと発展させた。戦後、[[フィレンツェ]]を本拠地として活発な活動を展開していたが、[[1952年]]から[[1964年]]まで[[グラインドボーン音楽祭]]の音楽監督と芸術顧問に就任した。死ぬ直前まで指揮活動が衰えることはなかった<ref>[http://www.musicweb-international.com/classRev/2005/Aug05/Gui_5046712012.htm]</ref>が、フィレンツェで死去した。
[[1928年]]に創設されたばかりのフィレンツェ市立管弦楽団(現[[フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団]])の音楽監督を任された。[[1933年]]には、このオーケストラのコンサートを[[フィレンツェ五月音楽祭]]へと発展させた。戦後、[[フィレンツェ]]を本拠地として活発な活動を展開していたが、[[1952年]]から[[1964年]]まで[[グラインドボーン音楽祭]]の音楽監督と芸術顧問に就任した。死ぬ直前まで指揮活動が衰えることはなかった<ref>[http://www.musicweb-international.com/classRev/2005/Aug05/Gui_5046712012.htm]</ref>が、フィレンツェで死去した。


==脚注==
==脚注==

2017年6月10日 (土) 10:21時点における版

ヴィットリオ・グイ
生誕 (1885-09-14) 1885年9月14日(138歳)
出身地
イタリアの旗 イタリア
死没 (1975-10-17) 1975年10月17日(48歳)
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者

ヴィットリオ・グイVittorio Gui, 1885年9月14日 - 1975年10月17日)は、イタリア指揮者[1]

経歴

 1985年、ローマ生まれ。ローマ大学で文学を学んだ後、1906年サンタ・チェチーリア国立アカデミアで作曲のディプロマを取得し、その翌年にローマのアドリアーノ劇場ポンキエッリの《ジョコンダ》を演奏してデビューを飾りった。これが契機となって、ナポリとトリノで指揮をすることとなる。1912年ナポリサン・カルロ劇場の首席指揮者になり、イタリア各地の歌劇場に客演していた。

1928年に創設されたばかりのフィレンツェ市立管弦楽団(現フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団)の音楽監督を任された。1933年には、このオーケストラのコンサートをフィレンツェ五月音楽祭へと発展させた。戦後、フィレンツェを本拠地として活発な活動を展開していたが、1952年から1964年までグラインドボーン音楽祭の音楽監督と芸術顧問に就任した。死ぬ直前まで指揮活動が衰えることはなかった[2]が、フィレンツェで死去した。

脚注

  1. ^ [1]
  2. ^ [2]