「エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)」の版間の差分

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1913年[[10月27日]]、カンバーランド公はブラウンシュヴァイク公位に対する継承権の放棄を宣言し、翌日[[連邦参議院]]はエルンスト・アウグストにブラウンシュヴァイク公を与えることを決議した。エルンスト・アウグストは同年[[11月1日]]に[[ブラウンシュヴァイク城]]で即位し、大佐に昇進して第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"の連隊長に任じられた。
1913年[[10月27日]]、カンバーランド公はブラウンシュヴァイク公位に対する継承権の放棄を宣言し、翌日[[連邦参議院]]はエルンスト・アウグストにブラウンシュヴァイク公を与えることを決議した。エルンスト・アウグストは同年[[11月1日]]に[[ブラウンシュヴァイク城]]で即位し、大佐に昇進して第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"の連隊長に任じられた。


[[第一次世界大戦]]中、エルンスト・アウグストは[[陸軍少将]]の地位にあった。大戦末期に[[ドイツ革命]]が勃発すると、1918年11月8日に退位宣言に署名し君主権を失い、公国は[[ヴァイマル共和政]]の[[ブラウンシュヴァイク自由州]]となった。また彼が第一次世界大戦において[[ドイツ陸軍]]で軍務に就いていたことから、イギリス王ジョージ5世が[[1919年]]に発布した[[称号剥奪法]]によって父が持っていたカンバーランド公の爵位が剥奪された。このためエルンスト・アウグストはからこ称号を継承しなかった。
[[第一次世界大戦]]中、エルンスト・アウグストは[[陸軍少将]]の地位にあった。大戦末期に[[ドイツ革命]]が勃発すると、1918年11月8日に退位宣言に署名し君主権を失い、公国は[[ヴァイマル共和政]]の[[ブラウンシュヴァイク自由州]]となった。また彼が第一次世界大戦において[[ドイツ陸軍]]で軍務に就いていたことから、イギリス王ジョージ5世が[[1919年]]に発布した[[称号剥奪法]]によって父が持っていたカンバーランド公の爵位が剥奪された。このため[[1923年]]にが死ぬとハノーバー家当主は継承したが、カンバーランド公としては父の爵位剥奪と死によて断絶した。


1953年1月30日、マリエンブルク城で65歳で死去した。
1953年1月30日、マリエンブルク城で65歳で死去した。

2016年3月6日 (日) 04:54時点における版

エルンスト・アウグスト

エルンスト・アウグストErnst August, 1887年11月17日 - 1953年1月30日)は、ブラウンシュヴァイク公国の最後の(在位:1913年11月2日 - 1918年11月8日)。全名はエルンスト・アウグスト・クリスティアン・ゲオルクErnst August Christian Georg)。ハノーファー王太子エルンスト・アウグストの三男で、1923年から死去まで「エルンスト・アウグスト3世」としてハノーファー王家の家長でもあった。

生涯

1887年11月17日、元ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト(2世)とその妃であったデンマーク王クリスチャン9世の王女テューラの間に第6子(末子)としてウィーン近くのペンツィングで生まれた。父エルンスト・アウグスト(2世)はイギリス王ジョージ3世の曾孫にあたり、イギリス王子の称号とイギリス貴族カンバーランド=テヴィオットデイル公の爵位を持っていた。2人の兄がともに先立ったため、エルンスト・アウグストはハノーファー王家家長とカンバーランド公位の法定推定相続人となった。

  • 混乱を避けるため便宜上、以後は本記事の人物(3世)を「エルンスト・アウグスト」と、同名の父(2世)を「カンバーランド公」と表記する。

1884年ハノーファー家ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の遠戚にあたるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家ブラウンシュヴァイク公ヴィルヘルムが死去し、ブラウンシュヴァイク公が空位となった。カンバーランド公は彼の最近親の男系男子として公位継承権を主張したが、帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク連邦参議院に継承権者不在を決議させてプロイセン王子アルブレヒトをブラウンシュヴァイク公国の摂政とした。これは1866年普墺戦争において、ハノーファーがオーストリア帝国側につき、敗戦後プロイセンに併合されたものの最後のハノーファー王であるゲオルク5世やその長男のカンバーランド公がハノーファー王位を主張し続けていたためだった。1906年にアルブレヒトが死去すると、カンバーランド公は自身の公位継承権を放棄して長子のゲオルク・ヴィルヘルムに即位させるという提案を行なったが、これも後任の摂政であるメクレンブルク公ヨハン・アルブレヒトと連邦参議院によって否決された。

ゲオルク・ヴィルヘルムが1912年5月20日に自動車事故によって死去した後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はカンバーランド公に対して弔文を送った。この返礼のためにカンバーランド公はエルンスト・アウグストをベルリンへ遣ったが、この時彼はヴィルヘルム2世の一人娘であるプロイセン王女ヴィクトリア・ルイーゼと逢い、2人の交際が始まった。

1913年5月24日、エルンスト・アウグストとヴィクトリア・ルイーゼはマリエンブルク城で結婚式を挙げた。これによってハノーファー家とホーエンツォレルン家の間の対立関係に終止符が打たれた。2人の結婚式は第一次世界大戦前にヨーロッパ諸国の君主(イギリス女王ヴィクトリアやデンマーク王クリスチャン9世の子孫が多かった)が一堂に会する最後の機会となった。具体的にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と皇后アウグステ・ヴィクトリア、カンバーランド公と妻のデンマーク王女ティーラ、イギリス王ジョージ5世と王妃メアリロシア皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラらが参列した。また先立って2月に行なわれた婚約発表においてエルンスト・アウグストは皇帝に対して忠誠宣誓を行い、騎兵大尉及び第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"(Brandenburgisches Husarenregiment Nr. 3 "von Zieten")の中隊指揮官に任じられた。なおこの連隊はかつてエルンスト・アウグストの祖父ゲオルク5世や曽祖父エルンスト・アウグストが大佐として隊長を務めていた。

1913年10月27日、カンバーランド公はブラウンシュヴァイク公位に対する継承権の放棄を宣言し、翌日連邦参議院はエルンスト・アウグストにブラウンシュヴァイク公を与えることを決議した。エルンスト・アウグストは同年11月1日ブラウンシュヴァイク城で即位し、大佐に昇進して第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"の連隊長に任じられた。

第一次世界大戦中、エルンスト・アウグストは陸軍少将の地位にあった。大戦末期にドイツ革命が勃発すると、1918年11月8日に退位宣言に署名し君主権を失い、公国はヴァイマル共和政ブラウンシュヴァイク自由州となった。また彼が第一次世界大戦においてドイツ陸軍で軍務に就いていたことから、イギリス王ジョージ5世が1919年に発布した称号剥奪法によって父が持っていたカンバーランド公の爵位が剥奪された。このため1923年に父が死ぬとハノーバー家の当主は継承したが、カンバーランド公としては父の爵位剥奪と死によって断絶した。

1953年1月30日、マリエンブルク城で65歳で死去した。

子女

妃であるヴィクトリア・ルイーゼとの間には、以下の4男1女をもうけた。

先代
ヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルク(摂政)
ブラウンシュヴァイク公
1913年 - 1918年
次代
ドイツ革命により退位
先代
エルンスト・アウグスト(2世)
ハノーファー王家家長
1923年 - 1953年
次代
エルンスト・アウグスト(4世)