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継嗣が居なかったため、[[宍戸房純]]次男である[[佐佐木元久]](もとひさ、子に[[佐佐木親辰|親辰]]、[[浦親教]]([[浦元襄]]養子)がいる)を婿養子(於満志の夫)に迎えた。
継嗣が居なかったため、[[宍戸房純]]次男である[[佐佐木元久]](もとひさ、子に[[佐佐木親辰|親辰]]、[[浦親教]]([[浦元襄]]養子)がいる)を婿養子(於満志の夫)に迎えた。


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2015年8月17日 (月) 09:51時点における版

佐佐木 房高(ささき ふさたか、宝暦4年(1754年)-文政10年9月21日(1827年))は、江戸時代後期の長州藩士。尼子氏(佐佐木氏)13代目当主である。初名は紀久(のりひさ)、のちに藩主毛利斉房より偏諱を賜って房高に改名。父は佐佐木就清。子には嗣子なく、娘於満志のみ。

継嗣が居なかったため、宍戸房純次男である佐佐木元久(もとひさ、子に親辰浦親教浦元襄養子)がいる)を婿養子(於満志の夫)に迎えた。