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'''アナトール・リトヴァク''' ('''Anatole Litvak''', [[1902年]][[5月10日]] - [[1974年]][[12月15日]]) は、[[ロシア帝国|ロシア]]出身の[[映画監督]]。[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で活動した。[[日本]]では'''リトバーク'''、'''リトヴァーク'''とも表記される。 |
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1937年米国映画界入り。ここでも大きく才能を開かせる。数編の犯罪映画やロマンチックな物語(『黄昏』(1938)、『[[凡てこの世も天国も]]』(1940))、戦中は[[フランク・キャプラ]]等と共同監督で米国陸軍の[[ドキュメンタリー]]を制作。 |
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戦後も才能は衰えることなく、『私は殺される』(1948)、[[アカデミー監督賞]]にもノミネートされた『蛇の穴』(1948)、『暁前の決断』(1951)、そして『追憶』(1956)などの米国での作品がある。 |
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* ''Dolly macht Karriere'' (1930年) |
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* ''Tell Me Tonight'' (1932年) |
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* トヴァリッチ ''Tovarich'' (1937年) |
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* 犯罪博士 ''The Amazing Dr. Clitterhouse'' (1938年) |
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* 黄昏 ''The Sisters'' (1938年) |
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* ''Out of the Fog'' (1941年) |
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* ''Prelude to War'' (1942年) ドキュメンタリー。[[フランク・キャプラ]]と共同監督 |
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* ''The Nazis Strike'' (1943年) 短編ドキュメンタリー。 フランク・キャプラと共同監督 |
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* ''Divide and Conquer'' (1943年) ドキュメンタリー。 フランク・キャプラと共同監督 |
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* ''The Battle of Russia'' (1943年) ドキュメンタリー。 フランク・キャプラと共同監督 |
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* ''War Comes to America (1944年) |
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* 朝はまだ来ない ''The Long Night'' (1947年) |
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* 暁前の決断 ''Decision Before Dawn'' (1951年) |
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* 真夜中へ五哩 ''Le couteau dans la plaie'' (1962年) |
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== 外部リンク == |
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2014年11月28日 (金) 15:16時点における版
アナトール・リトヴァク Anatole Litvak | |||||||||
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本名 | Michael Anatole Litwak | ||||||||
生年月日 | 1902年5月10日 | ||||||||
没年月日 | 1974年12月15日(72歳没) | ||||||||
出生地 | ロシア帝国 キエフ | ||||||||
死没地 | フランス ヌイイ=シュル=セーヌ | ||||||||
職業 | 映画監督 | ||||||||
活動期間 | 1930年 - 1970年 | ||||||||
配偶者 |
ミリアム・ホプキンス (1937年 - 1939年) Sophie Steur (1955年 - 1974年) | ||||||||
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アナトール・リトヴァク (Anatole Litvak, 1902年5月10日 - 1974年12月15日) は、ロシア出身の映画監督。ドイツ、フランス、イギリス、アメリカで活動した。日本ではリトバーク、リトヴァークとも表記される。
来歴
1902年5月10日、ロシア帝国 (現ウクライナ)のキエフで生まれた。父親はユダヤ人の銀行頭取。14歳の時にサンクトペテルブルクに移り、前衛劇場で俳優としてデビューした。その後、同地の大学で哲学と演技を学び、劇団で俳優兼助手となった。
1923年、ノルドキノ・スタジオに入り、数本の作品で脚本や美術を担当。同時に初の短編『Tatiana』を製作したが、同年にドイツへと渡った。
ドイツではゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の『喜びなき街』(1925年)の編集やアレキサンダー・ボルコフの助監督を務めた。その後、1930年に長編『Dolly macht Karriere 』で映画監督としてデビュー。以後、『女人禁制』(1931年)、『今宵こそは』(1932年)を発表したが、1933年にナチス政権が誕生すると、リトヴァクはフランスへと移住。同地で『最期の戦闘機』(1935年)や『うたかたの戀』(1936年)などを発表した。
1937年にアメリカへと渡り、ハリウッドに進出。数本の犯罪映画や『黄昏』(1938年や『凡てこの世も天国も』(1940年)といったロマンス映画を発表。1942年から1945年までは『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(1944年)などのプロパガンダ映画『Why We Fight』シリーズをフランク・キャプラと共同で監督した。戦後、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が授与された。
その後もアメリカに留まり、アカデミー監督賞にノミネートされた『蛇の穴』(1948年)やイングリッド・バーグマンを起用した『追想』(1956年)などの作品を発表した。1960年代からは再びヨーロッパに移り、バーグマンとイヴ・モンタンを起用した『さよならをもう一度』(1961年)や『将軍たちの夜』(1967年)などの作品を発表した。
1974年12月15日、フランスのヌイイ=シュル=セーヌで死去した。
監督作品
- Dolly macht Karriere (1930年)
- 女人禁制 Nie wieder Liebe (1931年)
- Calais-Douvres (1931年)
- Coeur de lilas (1932年)
- 今宵こそは Das Lied einer Nacht (1932年)
- Tell Me Tonight (1932年)
- La chanson d'une nuit (1933年)
- Sleeping Car (1933年)
- Cette vieille canaille (1933年)
- 最後の戦闘機 L' Équipage (1935年)
- うたかたの戀 Mayerling (1936年)
- The Woman I Love (1937年)
- トヴァリッチ Tovarich (1937年)
- 犯罪博士 The Amazing Dr. Clitterhouse (1938年)
- 黄昏 The Sisters (1938年)
- 戦慄のスパイ網 Confessions of a Nazi Spy (1939年)
- Castle on the Hudson (1940年)
- 凡てこの世も天国も All This, and Heaven Too (1940年)
- 栄光の都 City for Conquest (1940年)
- Out of the Fog (1941年)
- Blues in the Night (1941年)
- 純愛の誓い This Above All (1942年)
- Prelude to War (1942年) ドキュメンタリー。フランク・キャプラと共同監督
- The Nazis Strike (1943年) 短編ドキュメンタリー。 フランク・キャプラと共同監督
- Divide and Conquer (1943年) ドキュメンタリー。 フランク・キャプラと共同監督
- The Battle of Russia (1943年) ドキュメンタリー。 フランク・キャプラと共同監督
- ザ・バトル・オブ・チャイナ The Battle of China (1944年) ドキュメンタリー。 フランク・キャプラと共同監督
- War Comes to America (1944年)
- 朝はまだ来ない The Long Night (1947年)
- 私は殺される Sorry, Wrong Number (1948年)
- 蛇の穴 The Snake Pit (1948年)
- 暁前の決断 Decision Before Dawn (1951年)
- 想い出 Un acte d'amour (1953年)
- 愛情は深い海の如く The Deep Blue Sea (1955年)
- 追想 Anastasia (1956年)
- マイヤーリング Mayerling (1957年) 『うたかたの戀』を再映画化したテレビ映画
- 旅 The Journey (1959年)
- さよならをもう一度 Goodbye Again (1961年)
- 真夜中へ五哩 Le couteau dans la plaie (1962年)
- 将軍たちの夜 The Night of the Generals (1967年)
- 殺意の週末 The Lady in the Car with Glasses and a Gun (1970年)
外部リンク
- アナトール・リトヴァク - allcinema
- Anatole Litvak - IMDb(英語)