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{{ActorActress
[[File:Clair & Satie, Relache1924.jpg|thumb|帽子の作曲家サティーとサングラスのクレール1924]]
| 芸名 = René Clair
| ふりがな = ルネ・クレール
| 画像ファイル = Clair & Satie, Relache1924.jpg|thumb|
| 画像サイズ = 250px
| 画像コメント = 帽子の作曲家[[エリック・サティ]]とサングラスのクレール ([[1924年]])
| 本名 = ルネ=ルシアン・ショメット<br />René-Lucien Chomette
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| 出生地 = {{FRA}} [[パリ]]
| 死没地 = {{FRA}} [[オー=ド=セーヌ県]][[ヌイイ=シュル=セーヌ]]
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1989
| 生月 = 11
| 生日 = 11
| 没年 = 1981
| 没月 = 3
| 没日 = 15
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]
| ジャンル = [[映画]]
| 活動期間 = [[1924年]] - [[1965年]]
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 著名な家族 = <!-- 著名人が家族にいる場合に記載 -->
| 所属劇団 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = <!-- 皆が認める代表作品を入力 -->『[[巴里の屋根の下]]』<br />『[[自由を我等に]]』
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 =
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''楽しい映画賞'''<br />[[第1回ヴェネツィア国際映画祭|1932年]] 『[[自由を我等に]]』<br />'''国際映画批評家連盟賞'''<br />1952年 『夜ごとの美女』
| 備考 =
}}
'''ルネ・クレール''' ('''René Clair'''、本名:'''ルネ=ルシアン・ショメット'''、'''René-Lucien Chomette''', [[1898年]][[11月11日]] - [[1981年]][[3月15日]]) は、[[フランス]]の[[映画監督]]・[[脚本家]]・[[映画プロデューサー]]。


== 来歴 ==
'''ルネ・クレール'''(René Clair、[[1898年]][[11月11日]] - [[1981年]][[3月15日]])は、[[フランス]]の[[映画監督]]・[[映画プロデューサー]]・[[脚本家]]。本名は'''ルネ・ショメット'''(René Chomette)。
[[1898年]][[11月11日]]、[[パリ]]でルネ=ルシアン・ショメットとして生まれ、レ・アール地区で育った。その後、リセ・モンテーニュとリセ・ルイ・ル・グランの元で学んだ。[[第一次世界大戦]]では救急車を運転した。戦後、ルネ・デスプレの名で[[ジャーナリスト]]となった。その後、友人に誘われて映画に出演した。


[[1922年]]から[[ブリュッセル]]で映画技法を学んだ。[[1924年]]、処女作となる[[短編映画|短編]]『幕間』と『眠る巴里』を発表し、[[映画監督]]としてデビューした。以後、『[[巴里の屋根の下]]』([[1930年]])や『[[自由を我等に]]』([[1931年]])など、詩情と諧謔と風刺に溢れる多くの映画を発表した。[[1935年]]からは[[イギリス]]に渡り、『幽霊西へ行く』(1935年)など2本の作品を発表した。
== 略歴 ==
[[パリ]]に生まれ、レ・アール地区に育った。リセ・モンテーニュ([[:fr:Lycée Montaigne|Lycée Montaigne]])と、リセ・ルイ・ル・グラン([[:fr:Lycée Louis-le-Grand|Lycée Louis-le-Grand]])に学んだ。


[[第二次世界大戦]]時には[[ハリウッド]]に移り、『[[奥様は魔女 (1942年の映画)|奥様は魔女]]』([[1942年]])や[[アガサ・クリスティー]]原作の『そして誰もいなくなった』など5本の作品を発表したが、[[ヴィシー政権]]からは国籍を剥奪された。戦後、[[1947年]]の『沈黙は金』で[[フランスの映画|フランス映画界]]に復帰した。
[[第一次世界大戦]]では、救急車を運転した。戦後、ルネ・デスプレ(René Desprès)の名でジャーナリストとなり、誘われて映画に出演した。


その後も『悪魔の美しさ』([[1950年]])や『夜ごとの美女』([[1952年]])、『夜の騎士道』([[1955年]])などを発表し、高く評価された。[[1953年]]には[[ケンブリッジ大学]]から名誉教授号が授与された。同年、シネマフランセのグランプリを受賞した。[[1960年]]には[[アカデミー・フランセーズ]]の会員に選出された。[[1970年]]には[[大阪万国博覧会]]のために来日した。
[[1922年]]、[[ブリュッセル]]で映画技法を学び、翌1923年、処女作『眠る巴里』(Paris qui dort)を発表後、詩情と諧謔と風刺に溢れる、多くの映画を作った。


[[第二次世界大戦]]時は[[ハリウッド]]に移り、[[ヴィシー政権]]に国籍を剥奪された。
[[1981年]][[3月15日]]、[[ヌイイ=ュル=セ]]で死去した。


== 人物 ==
[[1953年]]、[[ケンブリッジ大学]]から名誉教授号を贈られ、シネマフランセ([[:fr:wikipedia.org/wiki/Cin%C3%A9ma_fran%C3%A7ais|Cinéma français]])のグランプリを受けた。
[[ジャック・フェデー]]、[[ジャン・ルノワール]]、[[ジュリアン・デュヴィヴィエ]]、[[マルセル・カルネ]]と並んで、古典[[フランスの映画|フランス映画]]における「'''ビッグ5'''」の一人として知られる。[[映画監督]]のアンリ・ショメットは兄弟である。


== 監督作品 ==
[[1960年]]、[[アカデミー・フランセーズ]]の会員に選出された。
* 幕間 - ''Entr'acte'' (1924年) 短編

* 眠るパリ ''Paris qui dort'' (1924年) 短編
[[1970年]]、[[大阪万国博覧会]]のため来日。
* ''Le fantôme du Moulin-Rouge'' (1925年)

* ''Le voyage imaginaire'' (1926年)
[[1981年]]3月、パリ西北隣のヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)にて死去。
* ''La proie du vent'' (1927年)

* イタリア麦の帽子 ''Un chapeau de paille d'Italie'' (1928年)
彼は古典フランス映画のビッグ5の1人である<ref>他の4人とは、[[ジャック・フェデー]]、[[ジャン・ルノワール]]、[[ジュリアン・デュヴィヴィエ]]、[[マルセル・カルネ]]。</ref>。
* ''Les deux timides'' (1928年)

* [[巴里の屋根の下]] ''Sous les toits de Paris'' (1930年)
[[アンリ・ショメット]]([[:fr:Henri Chomette|Henri Chomette]])監督は兄弟。
* ル・ミリオン ''Le Million'' (1931年)

* [[自由を我等に]] ''À nous la liberté'' (1931年)
== 主な監督作品 ==
* [[巴里祭]] ''Quatorze Juillet'' (1932年)
* 眠るパリ - ''Paris qui dort'' (1923) <未>
* 最後の億萬長者 ''Le dernier milliardaire'' (1934年)
* 幕間 - ''Entr'acte'' (1924)
* 幽霊西へ行く ''The Ghost Goes West'' (1935年)
* イタリア麦の帽子 - ''Un chapeau de paille d'Italie'' (1927) <未>
* ''Break the News'' (1938年)
* [[巴里の屋根の下]] - ''Sous les toits de Paris'' (1930)
* 焔の女 ''The Flame of New Orleans'' (1941年)
* ル・ミリオン - ''Le Million'' (1931)
* [[奥様は魔女 (1942年の映画)|奥様は魔女]] ''I Married a Witch'' (1942年)
* [[自由を我等に]] - ''À nous la liberté'' (1931)
* 提督の館 ''Forever and a Day'' (1943年)
* [[巴里祭]] - ''Quatorze Juillet'' (1932)
* 明日を知った男 ''It Happened Tomorrow'' (1944年)
* 最後の億萬長者 - ''Le dernier milliardaire'' (1934)
* そして誰もいなくなった ''And Then There Were None'' (1945年)
* 幽霊西へ行く - ''The Ghost Goes West'' (1935)
* 沈黙は金 ''Le Silence est d'or'' (1947年)
* 焔の女 - ''The Flame of New Orleans'' (1941)
* 悪魔の美しさ ''La Beauté du diable'' (1950年)
* [[奥様は魔女 (1942年の映画)|奥様は魔女]] - ''I Married a Witch'' (1942)
* 提督館 - ''Forever and a Day'' (1943) <未>
* 夜ごと美女 ''Les Belles de nuit'' (1952年)
* 夜の騎士道 ''Les Grandes manoeuvres'' (1955年)
* 明日を知った男 - ''It Happened Tomorrow'' (1944) <未>
* リラの門 ''Porte des Lilas'' (1957年)
* そして誰もいなくなった - ''And Then There Were None'' (1945)
* フランス女性と恋愛 '' La Française et l'amour'' (1960年)
* 沈黙は金 - ''Le Silence est d'or'' (1947)
* ''Tout l'or du monde'' (1961年)
* [[悪魔の美しさ]] - ''La Beauté du diable'' (1950)
* ''Les fêtes galantes'' (1965年)
* [[夜ごとの美女]] - ''Les Belles de nuit'' (1952)
* [[夜の騎士道]] - ''Les Grandes manoeuvres'' (1955)
* リラの門 - ''Porte des Lilas'' (1957)
* フランス女性と恋愛 - '' La Française et l'amour'' (1960)<br />

<未>は日本未公開作品。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{allcinema name|2030|ルネ・クレール}}
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* [http://fr.wikipedia.org/wiki/Lyc%C3%A9e_Louis-le-Grand Lycée Louis-le-Grand]
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2014年11月28日 (金) 09:26時点における版

ルネ・クレール
René Clair
René Clair
帽子の作曲家エリック・サティとサングラスのクレール (1924年
本名 ルネ=ルシアン・ショメット
René-Lucien Chomette
生年月日 (1989-11-11) 1989年11月11日
没年月日 (1981-03-15) 1981年3月15日(-9歳没)
出生地 フランスの旗 フランス パリ
死没地 フランスの旗 フランス オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ
職業 映画監督脚本家映画プロデューサー
ジャンル 映画
活動期間 1924年 - 1965年
主な作品
巴里の屋根の下
自由を我等に
 
受賞
ヴェネツィア国際映画祭
楽しい映画賞
1932年自由を我等に
国際映画批評家連盟賞
1952年 『夜ごとの美女』
その他の賞
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ルネ・クレールRené Clair、本名:ルネ=ルシアン・ショメットRené-Lucien Chomette, 1898年11月11日 - 1981年3月15日) は、フランス映画監督脚本家映画プロデューサー

来歴

1898年11月11日パリでルネ=ルシアン・ショメットとして生まれ、レ・アール地区で育った。その後、リセ・モンテーニュとリセ・ルイ・ル・グランの元で学んだ。第一次世界大戦では救急車を運転した。戦後、ルネ・デスプレの名でジャーナリストとなった。その後、友人に誘われて映画に出演した。

1922年からブリュッセルで映画技法を学んだ。1924年、処女作となる短編『幕間』と『眠る巴里』を発表し、映画監督としてデビューした。以後、『巴里の屋根の下』(1930年)や『自由を我等に』(1931年)など、詩情と諧謔と風刺に溢れる多くの映画を発表した。1935年からはイギリスに渡り、『幽霊西へ行く』(1935年)など2本の作品を発表した。

第二次世界大戦時にはハリウッドに移り、『奥様は魔女』(1942年)やアガサ・クリスティー原作の『そして誰もいなくなった』など5本の作品を発表したが、ヴィシー政権からは国籍を剥奪された。戦後、1947年の『沈黙は金』でフランス映画界に復帰した。

その後も『悪魔の美しさ』(1950年)や『夜ごとの美女』(1952年)、『夜の騎士道』(1955年)などを発表し、高く評価された。1953年にはケンブリッジ大学から名誉教授号が授与された。同年、シネマフランセのグランプリを受賞した。1960年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出された。1970年には大阪万国博覧会のために来日した。

1981年3月15日ヌイイ=シュル=セーヌで死去した。

人物

ジャック・フェデージャン・ルノワールジュリアン・デュヴィヴィエマルセル・カルネと並んで、古典フランス映画における「ビッグ5」の一人として知られる。映画監督のアンリ・ショメットは兄弟である。

監督作品

  • 幕間 - Entr'acte (1924年) 短編
  • 眠るパリ Paris qui dort (1924年) 短編
  • Le fantôme du Moulin-Rouge (1925年)
  • Le voyage imaginaire (1926年)
  • La proie du vent (1927年)
  • イタリア麦の帽子 Un chapeau de paille d'Italie (1928年)
  • Les deux timides (1928年)
  • 巴里の屋根の下 Sous les toits de Paris (1930年)
  • ル・ミリオン Le Million (1931年)
  • 自由を我等に À nous la liberté (1931年)
  • 巴里祭 Quatorze Juillet (1932年)
  • 最後の億萬長者 Le dernier milliardaire (1934年)
  • 幽霊西へ行く The Ghost Goes West (1935年)
  • Break the News (1938年)
  • 焔の女 The Flame of New Orleans (1941年)
  • 奥様は魔女 I Married a Witch (1942年)
  • 提督の館 Forever and a Day (1943年)
  • 明日を知った男 It Happened Tomorrow (1944年)
  • そして誰もいなくなった And Then There Were None (1945年)
  • 沈黙は金 Le Silence est d'or (1947年)
  • 悪魔の美しさ La Beauté du diable (1950年)
  • 夜ごとの美女 Les Belles de nuit (1952年)
  • 夜の騎士道 Les Grandes manoeuvres (1955年)
  • リラの門 Porte des Lilas (1957年)
  • フランス女性と恋愛 La Française et l'amour (1960年)
  • Tout l'or du monde (1961年)
  • Les fêtes galantes (1965年)

外部リンク

前任
フェルナン・グレッグ
アカデミー・フランセーズ
席次19

第20代:1960年 - 1981年
後任
ピエール・モワノー