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'''シメオン・ドニ・ポアソン'''(''Siméon Denis Poisson''、[[1781年]][[6月21日]] - [[1840年]])は、[[ポアソン分布]]・[[ポアソン方程式]]などで知られる[[フランス]]の[[数学者]]、[[地理学者]]、[[物理学者]]。
'''シメオン・ドニ・ポアソン'''(''Siméon Denis Poisson''、[[1781年]][[6月21日]] - [[1840年]])は、[[ポアソン分布]]・[[ポアソン方程式]]などで知られる[[フランス]]の[[数学者]]、[[地理学者]]、[[物理学者]]。


[[ピティヴィエ]]で生まれた。はじめは父の意向で[[医学]]を志したが、不器用であることや医学に関心を持たなかったことから[[数学]]へ転向した。[[パリ]]の[[エコール・サントラル]]を経て{{要出典|date=2009年10月}}、[[1798年]]に[[理工科学校|エコール・ポリテクニーク]]に入学、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]、[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]らに代数学などを学ぶ。[[1802年]]に[[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]の後任としてエコール・ポリテクニーク教授に就任し、[[1806年]]まで在籍した。
[[ピティヴィエ]]で生まれた。はじめは父の意向で[[医学]]を志したが、不器用であることや医学に関心を医学以外に向けていたことから[[数学]]へ転向した。[[パリ]]の[[エコール・サントラル]]を経て{{要出典|date=2009年10月}}、[[1798年]]に[[理工科学校|エコール・ポリテクニーク]]に入学、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]、[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]らに代数学などを学ぶ。[[1802年]]に[[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]の後任としてエコール・ポリテクニーク教授に就任し、[[1806年]]まで在籍した。


[[1808年]]と[[1809年]]にポアソンは、主要業績とされる幾つかの論文を[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]会報に発表した。1808年の ''Sur les inégalités des moyens mouvement des planètes'' では[[惑星]]の運動を取り扱い、ラプラスとラグランジェの提出した問題への解答を試みた。続く1809年には ''Sur le mouvement de rotation de la terre'' および ''Sur la variation des constantes arbitraires dans les questions de méchanique'' において、ポアソンはこれを発展させた。また[[1811年]]にはエコール・ポリテクニークでの講義録を2巻の書籍として出版した。
[[1808年]]と[[1809年]]にポアソンは、主要業績とされる幾つかの論文を[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]会報に発表した。1808年の ''Sur les inégalités des moyens mouvement des planètes'' では[[惑星]]の運動を取り扱い、ラプラスとラグランジェの提出した問題への解答を試みた。続く1809年には ''Sur le mouvement de rotation de la terre'' および ''Sur la variation des constantes arbitraires dans les questions de méchanique'' において、ポアソンはこれを発展させた。また[[1811年]]にはエコール・ポリテクニークでの講義録を2巻の書籍として出版した。

2013年10月17日 (木) 02:13時点における版

ポアソン

シメオン・ドニ・ポアソンSiméon Denis Poisson1781年6月21日 - 1840年)は、ポアソン分布ポアソン方程式などで知られるフランス数学者地理学者物理学者

ピティヴィエで生まれた。はじめは父の意向で医学を志したが、不器用であることや医学に関心を医学以外に向けていたことから数学へ転向した。パリエコール・サントラルを経て[要出典]1798年エコール・ポリテクニークに入学、ラグランジュラプラスらに代数学などを学ぶ。1802年フーリエの後任としてエコール・ポリテクニーク教授に就任し、1806年まで在籍した。

1808年1809年にポアソンは、主要業績とされる幾つかの論文をフランス科学アカデミー会報に発表した。1808年の Sur les inégalités des moyens mouvement des planètes では惑星の運動を取り扱い、ラプラスとラグランジェの提出した問題への解答を試みた。続く1809年には Sur le mouvement de rotation de la terre および Sur la variation des constantes arbitraires dans les questions de méchanique において、ポアソンはこれを発展させた。また1811年にはエコール・ポリテクニークでの講義録を2巻の書籍として出版した。 1818年にロンドン王立協会のフェローに選出され[1]、1832年にはコプリ・メダルを贈られている。

関連項目

出典

  1. ^ "Poisson; Simeon Denis (1781 - 1840)". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧

外部リンク