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'''根岸友山'''(ねぎし ゆうざん、[[文化 (元号)|文化]]6年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]([[1810年]][[1月2日]]) - [[明治]]23年([[1890年]])[[12月3日]])は[[壬生浪士組]]。後、[[庄内藩]][[新徴組]]取締役。本名、'''伴七'''。号友山と言う。諱は信輔。[[北辰一刀流]]。
'''根岸 友山'''(ねぎし ゆうざん、[[文化 (元号)|文化]]6年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]([[1810年]][[1月2日]]) - [[明治]]23年([[1890年]])[[12月3日]])は[[壬生浪士|壬生浪士組]]士、[[庄内藩]][[新徴組]]取締役。本名、'''伴七'''。号友山。諱は信輔。[[北辰一刀流]]。


== 生涯 ==
豪農[[根岸信保]]の長男として、[[武蔵国]][[大里郡]]甲山村(現・[[熊谷市]]冑山)に生まれる。剣術は[[千葉周作]]に学んだ。その後自宅で剣術や学問を教えたりしていた。
文化6年(1810年)、豪農[[根岸信保]]の長男として、[[武蔵国]][[大里郡]]甲山村(現・[[熊谷市]]冑山)に生まれる。剣術は[[千葉周作]]に学んだ。その後自宅で剣術や学問を教えたりしていた。


[[文久]]3年([[1863年]])、[[浪士組]]に参加。[[近藤勇]]、[[芹沢鴨]]らとともに[[京都]]に残る。その後、[[遠藤丈庵]]、[[清水五一]]らとともに「伊勢参詣」を理由に[[壬生浪士組]]を脱走して[[江戸]]に戻り、同年5月19日に庄内藩新徴組取締役(庄内藩と新徴組の連絡係)に就任するがすぐに退任。
[[文久]]3年([[1863年]])、[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]上洛に伴い[[江戸幕府]]によって組織された[[浪士組]]に参加。[[近藤勇]]、[[芹沢鴨]]らとともに[[京都]]に残る。その後、[[遠藤丈庵]]、[[清水五一]]らとともに「伊勢参詣」を理由に壬生浪士組を脱走して[[江戸]]に戻り、同年5月19日に庄内藩新徴組取締役(庄内藩と新徴組の連絡係)に就任するがすぐに退任。以後は討幕の意志を固めた。[[鳥羽・伏見の戦い]]で旧幕府軍が負けると盛大に祝ったという

以後は討幕の意志を固めた。[[鳥羽・伏見の戦い]]で旧幕府軍が負けると盛大に祝ったという。


明治元年([[1868年]])、勤王論を説く著書『吐血論』を刊行。著書中で、当時処刑に対して同情を集めていた近藤勇を思い切り批判する。
明治元年([[1868年]])、勤王論を説く著書『吐血論』を刊行。著書中で、当時処刑に対して同情を集めていた近藤勇を思い切り批判する。


明治23年12月3日死亡。享年82。
明治23年(1890年)、12月3日死亡。享年82。墓は冑山共同墓地([[埼玉県]][[熊谷市]])にある

墓は冑山共同墓地([[埼玉県]][[熊谷市]])にある。


大里商工会による友山まつりが行われている。
大里商工会による友山まつりが行われている。

2013年4月24日 (水) 00:44時点における版

根岸 友山(ねぎし ゆうざん、文化6年11月27日1810年1月2日) - 明治23年(1890年12月3日)は、壬生浪士組隊士、庄内藩新徴組取締役。本名、伴七。号は友山。諱は信輔。北辰一刀流

生涯

文化6年(1810年)、豪農根岸信保の長男として、武蔵国大里郡甲山村(現・熊谷市冑山)に生まれる。剣術は千葉周作に学んだ。その後自宅で剣術や学問を教えたりしていた。

文久3年(1863年)、将軍徳川家茂上洛に伴い江戸幕府によって組織された浪士組に参加。近藤勇芹沢鴨らとともに京都に残る。その後、遠藤丈庵清水五一らとともに「伊勢参詣」を理由に壬生浪士組を脱走して江戸に戻り、同年5月19日に庄内藩新徴組取締役(庄内藩と新徴組の連絡係)に就任するがすぐに退任。以後は討幕の意志を固めた。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が負けると盛大に祝ったという。

明治元年(1868年)、勤王論を説く著書『吐血論』を刊行。著書中で、当時処刑に対して同情を集めていた近藤勇を思い切り批判する。

明治23年(1890年)、12月3日死亡。享年82。墓は冑山共同墓地(埼玉県熊谷市)にある。

大里商工会による友山まつりが行われている。

演じた俳優

関連項目

外部リンク