「ソニン (清)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Muzmuz (会話 | 投稿記録)
m →‎外部リンク: カテゴリの変更
m ボット: 言語間リンク 4 件をウィキデータ上の (d:Q911174 に転記)
23行目: 23行目:
[[Category:1601年生|そにん]]
[[Category:1601年生|そにん]]
[[Category:1667年没|そにん]]
[[Category:1667年没|そにん]]

[[en:Sonin]]
[[ko:색니]]
[[no:Sonin]]
[[zh:索尼 (人物)]]

2013年3月22日 (金) 14:09時点における版

ソニン (満州語 Sonin中国語 索尼ピンイン Suǒní、1601年-1667年-) は、清朝初期の重臣。諡号は文忠。ヘシェリ(赫舍利)氏。満洲正黄旗出身。

略歴

ヌルハチ(太祖、努爾哈赤)、ホンタイジ(太宗、皇太極)に従い、各地を転戦した。漢文満州語モンゴル語に通じていたので、通訳としても重要な役割を担った。1644年(順治元年)にドルゴン(多爾袞)に従い入閣。のちドルゴンに従わなかったとの理由で爵位を下げられたが、1651年(順治8年)に順治帝が親政をはじめると、二等子の爵位を与えられ、内大臣及び議政大臣の職に就き、内閣府を総括した。

1661年順治帝が亡くなり康熙帝が即位すると、先帝の遺詔により、幼い皇帝の補佐として、スクサハ(蘇克薩哈)、エビルン(遏必隆)、オボイ(鰲拝)とともにソニンが輔政大臣に選ばれ、かつその筆頭格とされた。4人は利権を巡って対立しつつも、ソニンの力によって微妙な均衡を保っていた。ソニンが輔政大臣の時期には、満州時代からの功臣として、明朝以来の「内閣」「十三衙門」等を国初の「内三院」「内務府」に改めるなど、国粋主義的な政策を推し進めた。1667年(康煕6年)にソニンは一等公を授けられたが、その年に病没した。ソニンが死んだ後、まもなくオボイが朝廷の覇権を握るようになった。

康熙年間の重臣ソエト(索額圖)は息子。また、孫が康熙帝に嫁いでいる。

関連項目

外部リンク