「紀元前368年」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
en:368 BC (05:28, 17 September 2012 UTC) を翻訳 |
|||
1行目: | 1行目: | ||
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|3}} | |
|||
#REDIRECT [[紀元前360年代]] |
|||
前10年紀2= {{紀元前/年代|380}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|370}} | 10年紀= {{紀元前/年代|360}} | |
|||
次10年紀1= {{紀元前/年代|350}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|340}} | |
|||
3年前= {{紀元前/年|371}} | 2年前= {{紀元前/年|370}} | 1年前= {{紀元前/年|369}} | |
|||
1年後= {{紀元前/年|367}} | 2年後= {{紀元前/年|366}} | 3年後= {{紀元前/年|365}} |}} |
|||
'''紀元前368年'''は、[[ローマ暦]]の年である。当時は、「コルネリウス、プラエテクスタトゥス、ストルクトゥス、カピトリヌス、クラッスス、キクリヌスが[[護民官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]386年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前368年と表記されるのが一般的となった。 |
|||
== できごと == |
|||
=== ギリシア === |
|||
* 前年の[[マケドニア王国]]による[[テッサリア]]への介入が成功した後に、マケドニア軍が撤退すると、[[フェライのアレクサンドロス]]の圧政は以前にも増して苛烈なものとなった。このためテッサリア人たちは[[テーバイ]]に支援を求めた。テーバイは[[ペロピダス]]を派遣したが、アレクサンドロスは約束を違えてペロピダスを捕らえ、投獄した。 |
|||
* これに対して、[[エパメイノンダス]]はテーバイ軍の指揮者に復帰し、テーバイ軍を率いてテッサリアへ侵攻し、テッサリア人たちに策をめぐらせ、戦うことのないままペロピダスの解放を勝ち取った。 |
|||
* 義弟[[アロロスのプトレマイオス]] ([[:en:Ptolemy of Aloros]]) の煽動により、[[マケドニア王国|マケドニア王]][[アレクサンドロス2世]]が、祝祭の最中に暗殺された。王弟[[ペルディッカス3世]]が即位したが、まだ歳若く、プトレマイオスが[[摂政]]に任じられた。 |
|||
=== 中国 === |
|||
* [[顕王 (周)|顕王]]が、[[周]]の王に即位した。 |
|||
=== 哲学 === |
|||
* [[プラトン]]の『[[国家 (対話篇)|国家]]』が完成した。同書は、理想的な正しい社会の法について論じ、[[哲人王 (プラトン)|王は哲学者]]か、少なくともその教えを受けた者でなければならないと示唆した。 |
|||
== 誕生 == |
|||
== 死去 == |
|||
* [[アレクサンドロス2世]] ([[:en:Alexander II of Macedon|Alexander II]]) - [[マケドニア王国|マケドニア王]](暗殺) |
|||
== 出典・脚注 == |
|||
{{Reflist}} |
|||
{{デフォルトソート:きけんせん368ねん}} |
|||
[[Category:紀元前368年|*]] |
|||
[[ast:368 edC]] |
|||
[[be:368 да н.э.]] |
|||
[[be-x-old:368 да н. э.]] |
|||
[[bs:368 p.n.e.]] |
|||
[[ca:368 aC]] |
|||
[[cs:368 př. n. l.]] |
|||
[[cy:368 CC]] |
|||
[[da:368 f.Kr.]] |
|||
[[de:368 v. Chr.]] |
|||
[[el:368 π.Χ.]] |
|||
[[en:368 BC]] |
|||
[[es:368 a. C.]] |
|||
[[eo:-368]] |
|||
[[eu:K. a. 368]] |
|||
[[fa:۳۶۸ (پیش از میلاد)]] |
|||
[[fr:368 av. J.-C.]] |
|||
[[gl:-368]] |
|||
[[ko:기원전 368년]] |
|||
[[hy:Մ.թ.ա. 368]] |
|||
[[hr:368. pr. Kr.]] |
|||
[[io:368 aK]] |
|||
[[it:368 a.C.]] |
|||
[[ka:ძვ. წ. 368]] |
|||
[[kk:Б. з. д. 368 жыл]] |
|||
[[sw:368 KK]] |
|||
[[la:368 a.C.n.]] |
|||
[[lb:-368]] |
|||
[[lt:368 m. pr. m. e.]] |
|||
[[hu:I. e. 368]] |
|||
[[mk:368 п.н.е.]] |
|||
[[mr:इ.स.पू. ३६८]] |
|||
[[ms:368 SM]] |
|||
[[nl:368 v.Chr.]] |
|||
[[ne:ई.पू. ३६८]] |
|||
[[new:इ॰ पू॰ ३६८]] |
|||
[[nap:368 AC]] |
|||
[[no:368 f.Kr.]] |
|||
[[oc:-368]] |
|||
[[uz:Mil. av. 368]] |
|||
[[nds:368 v. Chr.]] |
|||
[[pl:368 p.n.e.]] |
|||
[[pt:368 a.C.]] |
|||
[[ro:368 î.Hr.]] |
|||
[[ru:368 год до н. э.]] |
|||
[[sq:368 p.e.s.]] |
|||
[[sk:368 pred Kr.]] |
|||
[[sl:368 pr. n. št.]] |
|||
[[sr:368. п. н. е.]] |
|||
[[sh:368. pne.]] |
|||
[[su:368 SM]] |
|||
[[fi:368 eaa.]] |
|||
[[sv:368 f.Kr.]] |
|||
[[tl:368 BC]] |
|||
[[th:พ.ศ. 176]] |
|||
[[uk:368 до н. е.]] |
|||
[[vec:368 a.C.]] |
|||
[[war:368 UC]] |
|||
[[yo:368 SK]] |
|||
[[zh:前368年]] |
2012年12月26日 (水) 08:26時点における版
世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
---|---|
十年紀 |
前380年代 前370年代 前360年代 前350年代 前340年代 |
年 |
前371年 前370年 前369年 紀元前368年 前367年 前366年 前365年 |
紀元前368年は、ローマ暦の年である。当時は、「コルネリウス、プラエテクスタトゥス、ストルクトゥス、カピトリヌス、クラッスス、キクリヌスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元386年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前368年と表記されるのが一般的となった。
できごと
ギリシア
- 前年のマケドニア王国によるテッサリアへの介入が成功した後に、マケドニア軍が撤退すると、フェライのアレクサンドロスの圧政は以前にも増して苛烈なものとなった。このためテッサリア人たちはテーバイに支援を求めた。テーバイはペロピダスを派遣したが、アレクサンドロスは約束を違えてペロピダスを捕らえ、投獄した。
- これに対して、エパメイノンダスはテーバイ軍の指揮者に復帰し、テーバイ軍を率いてテッサリアへ侵攻し、テッサリア人たちに策をめぐらせ、戦うことのないままペロピダスの解放を勝ち取った。
- 義弟アロロスのプトレマイオス (en:Ptolemy of Aloros) の煽動により、マケドニア王アレクサンドロス2世が、祝祭の最中に暗殺された。王弟ペルディッカス3世が即位したが、まだ歳若く、プトレマイオスが摂政に任じられた。
中国
哲学
誕生
死去
- アレクサンドロス2世 (Alexander II) - マケドニア王(暗殺)