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2011年11月17日 (木) 23:27時点における版
宮中(きゅうちゅう)とは、皇居の中のこと。後に政府の中を意味する府中が国政そのものを意味するようになったのに対して、宮廷の事務・皇室の家政を意味するようになった。
戦前期の日本における「宮中」
戦前における天皇は国家の最高統治者であるとともに国家神道の最高祭司でもあり、皇族の家長でもあった。そのため、宮内省(宮内大臣)、内大臣府(内大臣)、元老・重臣、侍従長、侍従武官長・枢密顧問官などといった天皇の日常及び各職務の遂行のために必要な組織・人員が置かれていたが、大日本帝国憲法において天皇の親裁権の確立と宮中と府中の分離という原則が並立していた。だが、一方で天皇が有していた天皇大権の大きさを背景として、国政の重要問題に関して天皇による調整が期待されるようになると、宮中側の人々も天皇制の維持・強化の方向において政治的な問題にも関与するようになった。特に昭和期には彼らは「宮中グループ」もしくは「宮廷グループ」と呼ばれ、軍部や官僚などの諸勢力と結びついて国政の動向に重要な影響を与えるようになった。だが、宮中グループも標的とされた二・二六事件以後は強大化する軍部の力を府中・宮中ともに抑制することが出来なくなったために、彼らと妥協もしくは積極的に加担することで自らの地位を保持するようになっていった。近衛文麿や木戸幸一はその代表的人物とされる。戦後、天皇から国政の実質的権限が剥奪され、国家神道も解体されたことにより、日本国憲法が認めた国事行為を行うのに必要な最低限必要な組織として宮内府→宮内庁が設置された。
参考文献
- 増田知子「宮中」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13102-4)
- 藤原彰「宮中グループ」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4-095-23001-6)
- 茶谷誠一『昭和戦前期の宮中勢力と政治』(吉川弘文館、2009年) ISBN 978-4-642-03792-1)