「世良修蔵」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
6行目: 6行目:
長州藩において[[下関戦争]]敗戦後に[[奇兵隊]]が組織されると、後に3代目総督となる同郷・同門の[[赤根武人]]の招聘を受けて[[文久]]3年([[1863年]])頃奇兵隊に入隊し、奇兵隊書記となる。さらに[[慶応]]元年([[1865年]])の[[第二奇兵隊]]発足に伴い軍監に就任した。慶応2年([[1866年]])、赤根が佐幕派に内応したとの疑惑を受けて脱走すると世良も関与を疑われ謹慎処分となったが、同年4月に発生した第二奇兵隊の[[倉敷浅尾騒動]]事件を受けて隊内の安定のため復職している(この際、浦家より世良姓を賜り、[[世良修蔵]]となっている)。
長州藩において[[下関戦争]]敗戦後に[[奇兵隊]]が組織されると、後に3代目総督となる同郷・同門の[[赤根武人]]の招聘を受けて[[文久]]3年([[1863年]])頃奇兵隊に入隊し、奇兵隊書記となる。さらに[[慶応]]元年([[1865年]])の[[第二奇兵隊]]発足に伴い軍監に就任した。慶応2年([[1866年]])、赤根が佐幕派に内応したとの疑惑を受けて脱走すると世良も関与を疑われ謹慎処分となったが、同年4月に発生した第二奇兵隊の[[倉敷浅尾騒動]]事件を受けて隊内の安定のため復職している(この際、浦家より世良姓を賜り、[[世良修蔵]]となっている)。


幕府による[[第二次長州征伐]]が行われると第二奇兵隊を率いて抗戦し、同年6月の大島口において[[松山藩]]を中心とした幕府軍相手に勝利を収めた。停戦後は萩の海軍局へ転出し、また[[京都]]で[[薩摩藩]]等との折衝に当たったが、慶応4年([[1868年]])1月、幕府方との[[鳥羽・伏見の戦い]]に際し前線に復帰し、長州庶民軍である第二中隊([[第二奇兵隊]])や第六中隊([[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]])を指揮して戦い、新政府軍の勝利に貢献している。特に1月6日の戦闘において世良率いる別働隊が[[八幡山]]の旧幕府軍陣地を突破する活躍をしている。
幕府による[[第二次長州征伐]]が行われると第二奇兵隊を率いて抗戦し、同年6月の大島口において[[伊予松山藩|松山藩]]を中心とした幕府軍相手に勝利を収めた。停戦後は萩の海軍局へ転出し、また[[京都]]で[[薩摩藩]]等との折衝に当たったが、慶応4年([[1868年]])1月、幕府方との[[鳥羽・伏見の戦い]]に際し前線に復帰し、長州庶民軍である第二中隊([[第二奇兵隊]])や第六中隊([[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]])を指揮して戦い、新政府軍の勝利に貢献している。特に1月6日の戦闘において世良率いる別働隊が[[八幡山]]の旧幕府軍陣地を突破する活躍をしている。


その後は薩摩の[[黒田清隆]]、長州の[[品川弥二郎]]に代えて(彼らは就任を固辞した)、薩摩の[[大山綱良|大山格之助]]と共に新政府の[[奥羽鎮撫総督府]][[下参謀]]となり、[[戊辰戦争]]においては同年3月[[会津藩]]征伐の為に総督[[九条道孝]]以下570名と共に派遣された。[[仙台藩]]・[[米沢藩]]らによる会津救済嘆願があったが、あくまで武力討伐せよという強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから穏便な会津処置の障害と見られるようになった。さらに福島城下の[[金沢屋]]に宿泊した世良が当時[[新庄]]にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日に記した密書(「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた[[福島藩]]士を通じて入手した仙台藩士は世良の暗殺実行を決意(閏4月14日には仙台藩家老[[但木土佐]]らの承認を受けていた)。閏4月20日未明、仙台藩士[[瀬上主膳]]・[[姉歯武之進]]、福島藩士[[鈴木六太郎]]、[[目明かし]][[浅草屋宇一郎]]ら十余名に襲われる。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日[[阿武隈川]]河原で斬首された。世良の死をきっかけとして、新政府軍と[[奥羽越列藩同盟]]軍との戦争が始まる事になる。
その後は薩摩の[[黒田清隆]]、長州の[[品川弥二郎]]に代えて(彼らは就任を固辞した)、薩摩の[[大山綱良|大山格之助]]と共に新政府の[[奥羽鎮撫総督府]][[下参謀]]となり、[[戊辰戦争]]においては同年3月[[会津藩]]征伐の為に総督[[九条道孝]]以下570名と共に派遣された。[[仙台藩]]・[[米沢藩]]らによる会津救済嘆願があったが、あくまで武力討伐せよという強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから穏便な会津処置の障害と見られるようになった。さらに福島城下の[[金沢屋]]に宿泊した世良が当時[[新庄]]にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日に記した密書(「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた[[福島藩]]士を通じて入手した仙台藩士は世良の暗殺実行を決意(閏4月14日には仙台藩家老[[但木土佐]]らの承認を受けていた)。閏4月20日未明、仙台藩士[[瀬上主膳]]・[[姉歯武之進]]、福島藩士[[鈴木六太郎]]、[[目明かし]][[浅草屋宇一郎]]ら十余名に襲われる。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日[[阿武隈川]]河原で斬首された。世良の死をきっかけとして、新政府軍と[[奥羽越列藩同盟]]軍との戦争が始まる事になる。

2011年6月24日 (金) 00:23時点における版

世良 修蔵(せら しゅうぞう、天保6年7月14日1835年8月8日) - 慶応4年閏4月20日1868年6月10日))は幕末の長州藩士。

略歴

周防国大島郡椋野村庄屋中司家の出身。17歳の時萩藩藩校である明倫館に学び、後に大畠村で海防僧月性時習館清狂草堂)に学ぶ。さらに江戸儒者安井息軒三計塾に学び、塾長代理をつとめた。その後周防国阿月領主浦靱負が開設した私塾克己堂の兵学等の講師として仕官した(この当時既に士分となっており、大野修蔵と名乗っていた)。

長州藩において下関戦争敗戦後に奇兵隊が組織されると、後に3代目総督となる同郷・同門の赤根武人の招聘を受けて文久3年(1863年)頃奇兵隊に入隊し、奇兵隊書記となる。さらに慶応元年(1865年)の第二奇兵隊発足に伴い軍監に就任した。慶応2年(1866年)、赤根が佐幕派に内応したとの疑惑を受けて脱走すると世良も関与を疑われ謹慎処分となったが、同年4月に発生した第二奇兵隊の倉敷浅尾騒動事件を受けて隊内の安定のため復職している(この際、浦家より世良姓を賜り、世良修蔵となっている)。

幕府による第二次長州征伐が行われると第二奇兵隊を率いて抗戦し、同年6月の大島口において松山藩を中心とした幕府軍相手に勝利を収めた。停戦後は萩の海軍局へ転出し、また京都薩摩藩等との折衝に当たったが、慶応4年(1868年)1月、幕府方との鳥羽・伏見の戦いに際し前線に復帰し、長州庶民軍である第二中隊(第二奇兵隊)や第六中隊(遊撃隊)を指揮して戦い、新政府軍の勝利に貢献している。特に1月6日の戦闘において世良率いる別働隊が八幡山の旧幕府軍陣地を突破する活躍をしている。

その後は薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代えて(彼らは就任を固辞した)、薩摩の大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争においては同年3月会津藩征伐の為に総督九条道孝以下570名と共に派遣された。仙台藩米沢藩らによる会津救済嘆願があったが、あくまで武力討伐せよという強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから穏便な会津処置の障害と見られるようになった。さらに福島城下の金沢屋に宿泊した世良が当時新庄にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日に記した密書(「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた福島藩士を通じて入手した仙台藩士は世良の暗殺実行を決意(閏4月14日には仙台藩家老但木土佐らの承認を受けていた)。閏4月20日未明、仙台藩士瀬上主膳姉歯武之進、福島藩士鈴木六太郎目明かし浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日阿武隈川河原で斬首された。世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる。

創作作品では京都などで活動したいわゆる草莽の志士として描かれることが多いが、上述のごとくそのような事実は無い。また福島城下・金沢屋について遊郭妓楼などと記した文献が散見されるが、実際には旅籠であり、これは城下町における町割りから明らかである。

なお、妻・千恵との間に一女があったが幼くして死んでおり、直系の子孫は絶えている。また、墓は福島県福島市宮町山口県周防大島町椋野にある。

世良を扱った作品