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嘉永4年(1851年)、[[肥前国|肥前]][[島原藩]]士進藤家の三男として生まれる。
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明治2年(1869年)に原口家養子。明治3年(1870年)、藩の[[貢進生]]として[[大学南校]]に入学、英学を専攻しその後[[開成学校]]に進学。明治8年(1875年)に[[文部省]]の第1回目の[[官費留学生]]として、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・レンセラー工大学に留学。[[土木工学]]を専攻し明治11年(1878年)卒業。[[ニューヨーク]]の[[橋梁製造会社]]に勤めたあと[[ペンシルベニア州]]の[[鉄道会社]]の[[技術者]]となる。[[フィラデルフィア]]から[[ウエストチェスター]]に達する鉄道網の建設を担当する。
明治2年(1869年)に原口家養子。明治3年(1870年)、藩の[[貢進生]]として[[大学南校]]に入学、英学を専攻しその後[[開成学校]]に進学。明治8年(1875年)に[[文部省]]の第1回目の[[官費留学生]]として、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[レンセラー工大学]]に留学。[[土木工学]]を専攻し明治11年(1878年)卒業。[[ニューヨーク]]の[[橋梁製造会社]]に勤めたあと[[ペンシルベニア州]]の[[鉄道会社]]の[[技術者]]となる。[[フィラデルフィア]]から[[ウエストチェスター]]に達する鉄道網の建設を担当する。


明治13年(1880年)に帰国、[[東京府]]の[[御用掛]][[技師]]となる。その後は上下水道施設の整備改良、[[東京市区改正計画]]の計画原案作成責任者として活躍。品川湾改修計画や[[吾妻橋]]架橋などを担当する。明治16年(1883年)から東京市区改正事業の担当の傍ら[[工部省]][[鉄道局]]技師を兼務。明治18年(1885年)12月工部省廃止にともない所属は内閣直属の[[鉄道局]]に。東京の鉄道に関しては現在の[[山手線]]の品川・新宿間や中央線の新宿・八王子間の建設指導。
明治13年(1880年)に帰国、[[東京府]]の[[御用掛]][[技師]]となる。その後は上下水道施設の整備改良、[[東京市区改正計画]]の計画原案作成責任者として活躍。品川湾改修計画や[[吾妻橋]]架橋などを担当する。明治16年(1883年)から東京市区改正事業の担当の傍ら[[工部省]][[鉄道局]]技師を兼務。明治18年(1885年)12月工部省廃止にともない所属は内閣直属の[[鉄道局]]に。東京の鉄道に関しては現在の[[山手線]]の品川・新宿間や中央線の新宿・八王子間の建設指導。

2011年4月21日 (木) 15:25時点における版

原口 要(はらぐち かなめ、1851年 - 1927年)は日本の鉄道技術者都市計画技術者

嘉永4年(1851年)、肥前島原藩士進藤家の三男として生まれる。

明治2年(1869年)に原口家養子。明治3年(1870年)、藩の貢進生として大学南校に入学、英学を専攻しその後開成学校に進学。明治8年(1875年)に文部省の第1回目の官費留学生として、アメリカレンセラー工科大学に留学。土木工学を専攻し明治11年(1878年)卒業。ニューヨーク橋梁製造会社に勤めたあとペンシルベニア州鉄道会社技術者となる。フィラデルフィアからウエストチェスターに達する鉄道網の建設を担当する。

明治13年(1880年)に帰国、東京府御用掛技師となる。その後は上下水道施設の整備改良、東京市区改正計画の計画原案作成責任者として活躍。品川湾改修計画や吾妻橋架橋などを担当する。明治16年(1883年)から東京市区改正事業の担当の傍ら工部省鉄道局技師を兼務。明治18年(1885年)12月工部省廃止にともない所属は内閣直属の鉄道局に。東京の鉄道に関しては現在の山手線の品川・新宿間や中央線の新宿・八王子間の建設指導。

明治21年(1888年)、日本最初の工学博士となる。

参考文献

  • 明治の東京計画 藤森照信 岩波書店 1982年
  • 土木学会誌 1982年10月号
  • 日本国有鉄道百年史 日本国有鉄道 1970年
  • 東京百年史 東京都 1979年