「葛原親王」の版間の差分

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'''葛原親王'''(かずらわらしんのう、[[延暦]]5年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[786年]][[12月1日]]) - [[仁寿]]3年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[853年]][[7月17日]]))は、[[平安時代]]の[[皇族]]で、[[平氏|桓武平氏]]の祖父は[[桓武天皇]]。母は多冶比真宗(貞子に[[平高棟|高棟王]][[平善棟|善棟王]][[高見王]]がいる
'''葛原親王'''(かずらわらしんのう、[[延暦]]5年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[786年]][[12月1日]]) - [[仁寿]]3年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[853年]][[7月13日]]))は、[[平安時代]]初期の[[皇族]]。[[桓武天皇]]の第三皇子。[[官位]]は一品・[[大宰府|大宰帥]][[平氏#葛原親流|桓武平氏]]の祖


== 経歴 ==
[[平氏|桓武平氏]]の祖で、幼少から俊秀として知られており、[[798年]]([[延暦]]17年)、異母兄弟の大伴皇子(後の[[淳和天皇]])と共に[[元服]]。[[803年]](延暦22年)[[治部省|治部卿]]に叙任され、以降[[大蔵省|大蔵卿]]、[[弾正尹]]、[[式部省|式部卿]]などを歴任した。特に[[式部省|式部卿]]については、[[810年]]([[弘仁]]元年)に[[任官|任じられ]]、途中[[823年]](同14年)から[[830年]]([[天長]]7年)を除いて、[[850年]]([[嘉祥]]3年)に[[大宰帥]]に任じられるまでの33年間にわたってその職にあり、[[831年]](天長8年)には80年ぶりに[[一品親王|一品]]に叙せられている。親王の薨去を記した『[[文徳実録]]』の記事でも「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」と記して親王が[[式部省]]の[[長官]]として実際に省を統率していたことを記している。
幼少から俊秀として知られており、[[延暦]]17年([[798年]])異母兄弟の大伴皇子(後の[[淳和天皇]])と共に[[元服]]。延暦22年([[803年]])四品・[[治部省|治部卿]]に叙任されて以降、[[大蔵省|大蔵卿]]・[[弾正尹]]・[[式部省|式部卿]]・[[大宰府|大宰帥]]を歴任し、この間[[大同 (日本)|大同]]4年([[809年]])三品、[[弘仁]]7年([[816年]])二品と昇進している。


この間に[[825年]](天長2年)子女に''''''(たいら)の姓を称することを[[上奏]]して許された、[[上野国|上野]][[太守]]、[[常陸国|常陸]][[太守]]を兼務して[[一品親王|一品]]に叙せられ[[835]]([[承和 (日本)|承和]]2)、[[甲斐国]][[巨麻郡]]の牧であった「馬相野空閑地五百町」(旧[[山梨県]]中巨摩郡[[八田村]]・[[白根町]]、現[[南アルプス市]])を与えられている。[[850年]]([[嘉祥]]3[[大宰帥]]に任じられ
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[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])[[甲斐国]][[巨麻郡]]の牧であった「馬相野空閑地五百町」(現在の[[山梨県]][[南アルプス市]])を与えられている。[[嘉祥]]3年([[850年]])には再度[[大宰帥]]に任じられた。


伝承の墓所と邸宅跡地が[[京都府]][[乙訓郡]]大山崎町にある。
仁寿3年(853年)6月4日に没した。享年68。最終官位は一品大宰帥。伝承の墓所と邸宅跡地が[[京都府]][[乙訓郡]][[大山崎町]]にある。


親王として諸官を歴任したが、特に式部卿については、弘仁元年([[810年]])に任官ののち、途中弘仁14年([[823年]])から天長7年([[830年]])の期間を除いて、嘉祥3年(850年)に大宰帥に転任するまでの33年間にわたってその職にあり、[[六国史]]の薨伝でも「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」と親王自身が政務に熟達し式部省の[[長官]]として実際に省を統率していたことを記している<ref>『[[日本文徳天皇実録]]』仁寿3年6月4日条</ref>。

== 系譜 ==
*父:[[桓武天皇]]
*母:多冶比真宗(貞子) - 多治比長野の娘
*妻:不詳
**男子:[[平高棟|高棟王]](804-867)
**男子:[[平善棟|善棟王]](?-829)
**男子:[[高見王]]

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 安田政彦『平安時代皇親の研究』([[吉川弘文館]]、[[1998年]]) ISBN 978-4-642-02330-6
* 安田政彦『平安時代皇親の研究』([[吉川弘文館]]、[[1998年]]) ISBN 978-4-642-02330-6

== 関連項目 ==
* [[平氏#葛原親王流|桓武平氏]]





2011年1月4日 (火) 15:51時点における版

葛原親王(かずらわらしんのう、延暦5年11月7日786年12月1日) - 仁寿3年6月4日853年7月13日))は、平安時代初期の皇族桓武天皇の第三皇子。官位は一品・大宰帥桓武平氏の祖。

経歴

幼少から俊秀として知られており、延暦17年(798年)異母兄弟の大伴皇子(後の淳和天皇)と共に元服。延暦22年(803年)四品・治部卿に叙任されて以降、大蔵卿弾正尹式部卿大宰帥を歴任し、この間大同4年(809年)三品、弘仁7年(816年)二品と昇進している。

天長2年(825年)子女を臣籍降下させ平(たいら)の姓を称することを上奏して許さる。のち、上野太守常陸太守を兼務して、天長8年(831年)には託基皇女以来80年ぶりに一品に叙せられている。

承和2年(835年甲斐国巨麻郡の牧であった「馬相野空閑地五百町」(現在の山梨県南アルプス市)を与えられている。嘉祥3年(850年)には再度大宰帥に任じられた。

仁寿3年(853年)6月4日に没した。享年68。最終官位は一品大宰帥。伝承の墓所と邸宅跡地が京都府乙訓郡大山崎町にある。

親王として諸官を歴任したが、特に式部卿については、弘仁元年(810年)に任官ののち、途中弘仁14年(823年)から天長7年(830年)の期間を除いて、嘉祥3年(850年)に大宰帥に転任するまでの33年間にわたってその職にあり、六国史の薨伝でも「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」と親王自身が政務に熟達し式部省の長官として実際に省を統率していたことを記している[1]

系譜

脚注

  1. ^ 日本文徳天皇実録』仁寿3年6月4日条

参考文献