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毛利氏家臣として、父と共に忠勤を励み、父が天正13年([[1585年]])に病死すると[[家督]]相続し、[[杉氏]]の当主となる。
毛利氏家臣として、父と共に忠勤を励み、父が天正13年([[1585年]])に病死すると[[家督]]相続し、[[杉氏]]の当主となる。


しかし、[[五奉行 (毛利氏)|五奉行]]の一人である児玉元良の12歳の娘と結婚したことで元宣の人生が暗転する。「古老物語」によると、実は妻は幼少の頃から主君である[[毛利輝元]]が目をつけており、元良の娘目当てで元良宅を度々訪問する始末で、婚礼事態が、そうした輝元の態度に快く思わない元良の意向によるものであった。
しかし、[[五奉行 (毛利氏)|五奉行]]の一人である児玉元良の12歳の娘と結婚したことで元宣の人生が暗転する。「古老物語」によると、実は妻は幼少の頃から主君である[[毛利輝元]]が目をつけており、元良の娘目当てで元良宅を度々訪問する始末で、婚礼自体が、そうした輝元の態度に快く思わない元良の意向によるものであった。





2010年11月5日 (金) 04:56時点における版

杉 元宣(すぎ もとのぶ、生年不詳 - 天正17年3月6日1589年))は日本の戦国時代の武将。毛利氏配下。父は杉元相。妻は児玉元良の娘。養子に杉元常。通称・小次郎。初めは長相と名乗る。

生涯

毛利氏家臣として、父と共に忠勤を励み、父が天正13年(1585年)に病死すると家督相続し、杉氏の当主となる。

しかし、五奉行の一人である児玉元良の12歳の娘と結婚したことで元宣の人生が暗転する。「古老物語」によると、実は妻は幼少の頃から主君である毛利輝元が目をつけており、元良の娘目当てで元良宅を度々訪問する始末で、婚礼自体が、そうした輝元の態度に快く思わない元良の意向によるものであった。


元宣の妻になっても元良の娘を諦めきれない輝元は家臣の椙山土佐・清兵衛親子、佐世元嘉らに命じて元宣の妻を奪ったのである。

主君とはいえ輝元の悪行に激怒した元宣は天正17年(1589年)、大坂豊臣秀吉に輝元の悪行を直訴すべく出立した。しかし事の重大さに気付いた小早川隆景は御家の大事の為、元宣を不憫に思いながらも野上庄沖にある大島の船隠で殺害。これにより隆相系杉氏は断絶した。その後、毛利家の船が徳山湾の沖を通ると海が荒れるようになり、広島域中では奇怪な事件が相次いだという。

元宣の供養塔は、杉元相が建立した菩提寺である興元寺に元相の墓の隣にあり、周南市重要文化財となっている。また、興元寺には恨みを含んだ武者の幽霊が白馬に乗って辺りを走り回る、という伝説も伝わっており、興元寺では山門を固く閉ざして「不開の門」とし、別に山門を建て、仏前に回向することを続けた。毛利家では、たびたび興元寺に寺領を寄進して、杉氏の供養を長く続けたという。

なお、元宣の元妻は二の丸殿と呼ばれ、萩藩主・毛利秀就徳山藩主・毛利就隆らを出産した。

参考文献

  • 「萩市史・第一巻」

関連項目