「藤堂高敏」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{基礎情報 武士
'''藤堂 高敏'''(とうどう たかとし、[[元禄]]6年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1693年]][[3月10日]]- [[享保]]13年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[1728年]][[5月21日]]))は、[[伊勢国]][[津藩]]の第5代藩主。藤堂家宗家5代。
| 氏名 = 藤堂高敏
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 生誕 = [[元禄]]6年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1693年]][[3月10日]])
| 死没 = [[享保]]13年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[1728年]][[5月21日]])
| 改名 = 正介(幼名)、高敏
| 戒名 = 大輪院殿智月高映権大僧都
| 墓所 = [[三重県]][[津市]]の寒松院
| 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[和泉国|和泉]]守、[[侍従]]
| 主君 = [[徳川綱吉]]→[[徳川家宣|家宣]]→[[徳川家継|家継]]→[[徳川吉宗|吉宗]]
| 藩 = [[伊勢国]][[津藩]]主
| 氏族 = [[藤堂氏]]
| 父母 = 父:[[藤堂高通]]、母:智鏡院([[福本休悦]]娘)<br />養父:''[[藤堂高睦]]''
| 兄弟 = 岩之助、学助、'''[[藤堂高敏|高敏]]'''、万助、清、栗
| 妻 = 正室:[[中川久通]]娘
| 子 = 養子:''[[藤堂高治]]''
}}
'''藤堂 高敏'''(とうどう たかとし)は、[[伊勢国]][[津藩]]の第5代藩主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家5代。


==生涯==
[[津藩#久居藩|久居藩]]の初代藩主・[[藤堂高通]]の三男。母は[[福本休悦]]の娘・智鏡院。正室は[[中川久通]]の娘。官位は従四位下。[[和泉国|和泉]]守。
[[津藩#久居藩|久居藩]]の初代藩主・[[藤堂高通]]の三男として生まれが、二人の兄がいずれも早世したため、[[嫡男]]となる。[[1697年]]に父が死去したとき、まだ5歳の幼少だったことから久居藩の家督は叔父の[[藤堂高堅]]が継ぎ、高敏は成長してから久居藩主になるということとなった。ところが本家の津藩において[[藤堂高睦]]の二人の男子が全て早世したため、[[1705年]]に高睦の養嗣子となる。[[1708年]]、高睦の死去により後を継いで藩主となった。しかし藩政においては[[宝永大噴火|宝永地震]]などの影響で凶作が相次い財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。


[[1728年]][[疱瘡]]が原因で倒れる。8代将軍・[[徳川吉宗]]から薬を下賜されたが一向に良くならず、[[享保]]13年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[1728年]][[5月21日]])、[[津城]]にて死去した。死後、家督は一族から迎えた養嗣子の[[藤堂高治]]が継いだ。高治は初代藩主・[[藤堂高虎]]の弟・高清の子孫であり、わずか5代で初代藩主・高虎の男系血統は絶えることとなった。
1693年2月4日生まれ。三男であったが、二人の兄がいずれも早世したため、嫡男となる。[[1697年]]に父が死去したとき、まだ5歳の幼少だったことから久居藩の家督は叔父の[[藤堂高堅]]が継ぎ、高敏は成長してから久居藩主ということとなった。ところが本家の津藩において[[藤堂高睦]]の二人の男子が全て早世したため、[[1705年]]に高睦の養嗣子となる。[[1708年]]、高睦の死去により後を継いで藩主となった。しかし藩政においては凶作が相次い財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。


==関連項目==
1728年、疱瘡が原因で倒れる。将軍・[[徳川吉宗]]から薬を下賜されたが一向に良くならず、4月13日[[津城]]にて死去した。死後、家督は一族から迎えた養嗣子の[[藤堂高治]]が継いだ。高治は初代藩主・[[藤堂高虎]]の弟・高清の子孫であり、わずか5代で初代藩主・高虎の男系血統は絶えることとなった。法号:大輪院殿智月高映権大僧都
* [[津藩]]


{{先代次代|[[藤堂氏|藤堂家当主]]|第13代:1708年 - 1728年<br/>藤堂高敏|[[藤堂高睦]]|[[藤堂高治]]}}
{{津藩主|藤堂氏|5代|1708-1728}}
{{津藩主|藤堂氏|5代|1708-1728}}


{{DEFAULTSORT:とうとう たかとし}}
[[Category:藤堂氏|たかとし]]
[[Category:藤堂氏|たかとし]]
[[Category:江戸の大名|とうとうたかとし]]
[[Category:江戸の大名|とうとうたかとし]]

2010年8月31日 (火) 03:53時点における版

 
藤堂高敏
時代 江戸時代中期
生誕 元禄6年2月4日1693年3月10日
死没 享保13年4月13日1728年5月21日
改名 正介(幼名)、高敏
戒名 大輪院殿智月高映権大僧都
墓所 三重県津市の寒松院
官位 従四位下和泉守、侍従
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
伊勢国津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高通、母:智鏡院(福本休悦娘)
養父:藤堂高睦
兄弟 岩之助、学助、高敏、万助、清、栗
正室:中川久通
養子:藤堂高治
テンプレートを表示

藤堂 高敏(とうどう たかとし)は、伊勢国津藩の第5代藩主。藤堂家宗家5代。

生涯

久居藩の初代藩主・藤堂高通の三男として生まれるが、二人の兄がいずれも早世したため、嫡男となる。1697年に父が死去したとき、まだ5歳の幼少だったことから久居藩の家督は叔父の藤堂高堅が継ぎ、高敏は成長してから久居藩主になるということとなった。ところが本家の津藩において藤堂高睦の二人の男子が全て早世したため、1705年に高睦の養嗣子となる。1708年、高睦の死去により後を継いで藩主となった。しかし藩政においては宝永地震などの影響で凶作が相次いぎ財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。

1728年疱瘡が原因で倒れる。8代将軍・徳川吉宗から薬を下賜されたが一向に良くならず、享保13年4月13日1728年5月21日)、津城にて死去した。死後、家督は一族から迎えた養嗣子の藤堂高治が継いだ。高治は初代藩主・藤堂高虎の弟・高清の子孫であり、わずか5代で初代藩主・高虎の男系血統は絶えることとなった。

関連項目

先代
藤堂高睦
藤堂家当主
第13代:1708年 - 1728年
藤堂高敏
次代
藤堂高治