「毛呂季光」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ちちぶ (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2010年6月}}
'''毛呂 季光'''(もろ すえみつ、生没年未詳)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期の人物。通称は太郎。本姓は[[藤原氏]]で、藤原季光とも。[[大宰権帥]]藤原季仲の孫。[[武蔵国]][[入間郡]]毛呂郷(現[[埼玉県]][[入間郡]][[毛呂山町]])の住人。[[鎌倉幕府]][[御家人]]。[[豊後国|豊後]][[国司|守]]。子に[[毛呂季綱|季綱]]。
'''毛呂 季光'''(もろ すえみつ、生没年未詳)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期の人物。通称は太郎。本姓は[[藤原氏]]で、藤原季光とも。[[大宰権帥]]藤原季仲の孫。[[武蔵国]][[入間郡]]毛呂郷(現[[埼玉県]][[入間郡]][[毛呂山町]])の住人。[[鎌倉幕府]][[御家人]]。[[豊後国|豊後]][[国司|守]]。子に[[毛呂季綱|季綱]]。



2010年6月2日 (水) 11:09時点における版

毛呂 季光(もろ すえみつ、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。通称は太郎。本姓は藤原氏で、藤原季光とも。大宰権帥藤原季仲の孫。武蔵国入間郡毛呂郷(現埼玉県入間郡毛呂山町)の住人。鎌倉幕府御家人豊後。子に季綱

源頼朝の挙兵直後から近臣として仕え、頼朝が鎌倉に拠点を構えて新造した大倉御所へ移る儀式で、頼朝の馬の右に付いている。文治2年(1186年)、頼朝の推挙により豊後に任じられ、准門葉に列せられる。文治5年(1189年)、奥州合戦に参加。永福寺薬師堂奉行人を務める。建久2年(1191年)、建久6年(1195年)の頼朝上洛に供奉。

建久6年正月に中条家長と喧嘩となり、双方の縁者が集まって合戦になりかける。頼朝は和田義盛を派遣して仲裁させ、家長を出仕停止にし、季光を御所に召して「御家人らに対して戦闘を起こし、命を失うのははなはだ穏やかではない」と直々に諭している。騒動の原因は、季光は由緒により、頼朝の門葉に準じる家柄であったが、家長が八田知家の養子である権威を誇って無礼を働いたために、季光が咎めたという。この騒動により心経絵が延期された。『吾妻鏡』での季光に関する記述は、建久6年10月に鶴岡臨時祭りで頼朝に供奉した記録が最後である。

子の季綱は、頼朝が伊豆国の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け、建久4年(1193年)2月10日、武蔵国和泉・勝田(埼玉県比企郡滑川町和泉・嵐山町勝田)を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる。

関連項目