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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[豊臣秀頼]]の馬廻[[酒井吉政|酒井下総守吉政]]の子として生まれる。
[[豊臣秀頼]]の馬廻[[酒井吉政|酒井下総守吉政]]の子として生まれる。山内(酒井)氏の系譜によると、父吉政は[[徳川家]]家臣[[酒井家次]]の子と伝えられる。

山内(酒井)氏の系譜によると父吉政は、[[徳川家]]家臣[[酒井家次]]の子。吉佐は、初め[[小早川秀秋]]に3000石で仕えるも、同僚を殺害して退身する。[[慶長]]5年([[1600年]])に[[山内一豊]]に中老職として1690石で仕え、[[浦戸城]]と[[山内氏]]を拝領する。慶長14年([[1609年]])[[山内康豊]]の三女郷姫と結婚。翌慶長15年([[1610年]])に長男豊吉誕生の為、化粧料として100石を賜る。慶長19年([[1614年]])[[大坂冬の陣]]、[[元和 (日本)|元和]]元年(1615年)[[大坂夏の陣]]に[[山内忠義]]に従出陣。秀頼に仕える父吉政は夏の陣で戦死。元和5年([[1619年]])[[福島正則]]改易により、藩主忠義が[[広島城]]請取を命じられ、安芸広島まで出陣。同年[[大坂城]]普請の課役を務める。元和7年([[1621年]])仕置家老を命じられる。元和8年([[1622年]])功績により500石を加増され、合わせ知行2190石とな。寛永9年(1632年)1月21日没。享年51
じめ、[[小早川秀秋]]に3000石で仕えるも、同僚を殺害して退身する。[[慶長]]5年([[1600年]])に[[山内一豊]]に中老職として1690石で仕え、[[浦戸城]]と山内を拝領する。慶長14年([[1609年]])[[山内康豊]]の三女郷姫と結婚。翌慶長15年([[1610年]])に長男豊吉誕生の為、化粧料として100石を賜る。慶長19年([[1614年]])[[大坂冬の陣]]、[[元和 (日本)|元和]]元年(1615年)[[大坂夏の陣]]に[[山内忠義]]に従って出陣。秀頼に仕える父吉政は夏の陣で戦死る。

元和5年([[1619年]])[[福島正則]]改易により、藩主忠義が[[広島城]]請取を命じられて安芸広島まで出陣する。同年、[[大坂城]]普請の課役を務める。元和7年([[1621年]])、仕置家老。元和8年([[1622年]])、功績により500石を加増されて知行2190石。寛永9年(1632年)1月21日没。享年51。


== 親族 ==
== 親族 ==

2010年4月24日 (土) 05:33時点における版

山内 吉佐(やまうち よしすけ、天正8年(1580年) - 寛永9年1月21日1632年3月11日))は、江戸時代初期の土佐藩の家老。通称采女、雅楽、壱岐。

生涯

豊臣秀頼の馬廻酒井下総守吉政の子として生まれる。山内(酒井)氏の系譜によると、父吉政は徳川家家臣酒井家次の子と伝えられる。

はじめ、小早川秀秋に3000石で仕えるも、同僚を殺害して退身する。慶長5年(1600年)に山内一豊に中老職として1690石で仕え、浦戸城と山内姓を拝領する。慶長14年(1609年)、山内康豊の三女郷姫と結婚。翌慶長15年(1610年)には長男豊吉誕生の為、化粧料として100石を賜る。慶長19年(1614年大坂冬の陣元和元年(1615年)大坂夏の陣山内忠義に従って出陣。秀頼に仕える父吉政は夏の陣で戦死している。

元和5年(1619年福島正則改易により、藩主忠義が広島城請取を命じられて安芸広島まで出陣する。同年、大坂城普請の課役を務める。元和7年(1621年)、仕置家老。元和8年(1622年)、功績により500石を加増されて知行2190石。寛永9年(1632年)1月21日没。享年51。

親族

参考文献

  • 東京大学史料編纂所「土佐国羣書類従」