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前作[[童夢・RC-83/フォード|童夢RC83]](トムス・83C)のサイドラジエターから、フロントラジエターに変更されるなど、フルモデルチェンジと言ってよいほど外観は変わった。[[ポルシェ 956]]の亜流が多かった当時のグループCカーの中では、極めて独自性の強い、かつ流麗なスタイルのマシンである。童夢、[[トムス]]の他、[[生沢徹]]率いるチームイクザワの1台を含めた3台が参戦した。
前作[[童夢・RC-83/フォード|童夢RC83]](トムス・83C)のサイドラジエターから、フロントラジエターに変更されるなど、フルモデルチェンジと言ってよいほど外観は変わった。[[ポルシェ 956]]の亜流が多かった当時のグループCカーの中では、極めて独自性の強い、かつ流麗なスタイルのマシンである。童夢、[[トムス]]の他、[[生沢徹]]率いるチームイクザワの1台を含めた3台が参戦した。


[[File:Toyota-Dome_85C_2008_Motorsport_Japan.jpg|thumb|right|300px|[[モータースポーツジャパン]]2008に展示されたワコール・トヨタ-童夢85C]]
デビュー戦は1984年6月の富士500km(トムス。童夢車は8月の[[鈴鹿1000km]]から)。以降なかなか完走できなかったが、[[ワコール]]のスポンサーを受けた童夢車が、同年の[[WEC-JAPAN]]では国産車で最上位の7位で完走、翌[[1985年]]の開幕戦[[1985年の全日本耐久選手権|鈴鹿500km]]では、国産C1カーとして初優勝を飾る。この85年は84Cのマイナーチェンジ版85Cを投入。国内耐久レースには最大時6台もの85Cが参戦し、2位入賞2回など安定した成績を残す。またこの年の[[ル・マン24時間レース]]にもトムスと共に85Cで参戦。事実上トヨタのル・マン初チャレンジである。童夢はリタイヤとなったが、トムス85Cが12位で完走した。
デビュー戦は1984年6月の富士500km(トムス。童夢車は8月の[[鈴鹿1000km]]から)。以降なかなか完走できなかったが、[[ワコール]]のスポンサーを受けた童夢車が、同年の[[WEC-JAPAN]]では国産車で最上位の7位で完走、翌[[1985年]]の開幕戦[[1985年の全日本耐久選手権|鈴鹿500km]]では、国産C1カーとして初優勝を飾る。この85年は84Cのマイナーチェンジ版85Cを投入。国内耐久レースには最大時6台もの85Cが参戦し、2位入賞2回など安定した成績を残す。またこの年の[[ル・マン24時間レース]]にもトムスと共に85Cで参戦。事実上トヨタのル・マン初チャレンジである。童夢はリタイヤとなったが、トムス85Cが12位で完走した。



2010年4月23日 (金) 10:03時点における版

童夢・84C/トヨタは、1984年全日本耐久選手権(後のJSPC)、および富士ロングディスタンス・シリーズ(富士LD)参戦用に童夢が開発したグループCカー。トムス・84Cは同型の姉妹車(外観の相異点はない)。トムス同様、童夢もこの84Cからトヨタエンジン(2.1リッター・直列4気筒ターボの4T-GT型)を搭載するようになった。設計は大国正浩。

前作童夢RC83(トムス・83C)のサイドラジエターから、フロントラジエターに変更されるなど、フルモデルチェンジと言ってよいほど外観は変わった。ポルシェ 956の亜流が多かった当時のグループCカーの中では、極めて独自性の強い、かつ流麗なスタイルのマシンである。童夢、トムスの他、生沢徹率いるチームイクザワの1台を含めた3台が参戦した。

モータースポーツジャパン2008に展示されたワコール・トヨタ-童夢85C

デビュー戦は1984年6月の富士500km(トムス。童夢車は8月の鈴鹿1000kmから)。以降なかなか完走できなかったが、ワコールのスポンサーを受けた童夢車が、同年のWEC-JAPANでは国産車で最上位の7位で完走、翌1985年の開幕戦鈴鹿500kmでは、国産C1カーとして初優勝を飾る。この85年は84Cのマイナーチェンジ版85Cを投入。国内耐久レースには最大時6台もの85Cが参戦し、2位入賞2回など安定した成績を残す。またこの年のル・マン24時間レースにもトムスと共に85Cで参戦。事実上トヨタのル・マン初チャレンジである。童夢はリタイヤとなったが、トムス85Cが12位で完走した。

トヨタの4気筒エンジンを積む88Cまでの一連のCカーは、基本的にこの84Cからの発展系である。