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==概要==
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大きさは、全長96メートル、後円部直径62メートル、後方部高さ10メートル、前方部長さ34メートル、前方部巾32メートル、前方部高さ約5メートルで山形県では最大規模を有し、東北では5番目の大きさの前方後円墳である(2008年5月現在)。周壕はめぐらしていない。もともと存在した自然丘を削り出して造られており、後円部が三段築成、前方部が一段築成である。
規模は、全長96メートル、後円部直径62メートル、後方部高さ10メートル、前方部長さ34メートル、前方部巾32メートル、前方部高さ約5メートルで山形県では最大規模を有し、東北では5番目の大きさの[[前方後円]]墳である(2008年5月現在)。周壕はめぐらしていない。もともと存在した自然丘を削り出して造られており、後円部が三段築成、前方部が一段築成である。


造られた時期は、出土[[遺物]]と築造方法などから推定すると、[[4世紀]]後半から[[5世紀]]初頭と考えられる。
造られた時期は、出土[[遺物]]と築造方法などから推定すると、[[4世紀]]後半から[[5世紀]]初頭と考えられる。


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宮城県名取市の大塚山古墳念南寺古墳、福島県浪江町の堂の森古墳などと計測上同一タイプの古墳であり、これらの古墳の影響を受けたものとみられている。また、東北最大の前方後円墳雷神山古墳を築造した豪族との同盟関係によって造られたものであ<ref>誉田慶喜「山形の夜明け」28-29ページ(横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』山川出版社 2003年2月)</ref>
大塚山古墳や[[宮城県]][[色麻町]]の念南寺古墳、[[福島県]][[浪江町]][[堂の森古墳]]などと計測上同一タイプの古墳であり、これらの古墳の影響を受けたものとみられている。また、[[宮城県]]名取市に所在する[[東北地方]]最大の前方後円墳[[雷神山古墳]]を築造した豪族との同盟関係によって造られたものと考えられる<ref>誉田慶喜「山形の夜明け」28-29ページ(横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』山川出版社 2003年2月)</ref>


現在は史跡公園として整備されている。
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== 脚注 ==
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2010年1月24日 (日) 22:02時点における版

稲荷森古墳(いなりもりこふん)は、山形県南陽市長岡にある古墳時代前期後半から中期前半に築造されたと推定される前方後円墳

概要

規模は、全長96メートル、後円部直径62メートル、後方部高さ10メートル、前方部長さ34メートル、前方部巾32メートル、前方部高さ約5メートルで山形県では最大規模を有し、東北では5番目の大きさの前方後円墳である(2008年5月現在)。周壕はめぐらしていない。もともと存在した自然丘を削り出して造られており、後円部が三段築成、前方部が一段築成である。

造られた時期は、出土遺物と築造方法などから推定すると、4世紀後半から5世紀初頭と考えられる。

1980年昭和55年)には、国の史跡に指定された(指定地面積、10,182.7平方メートル)。その後の1987年(昭和62年)と1988年(昭和63年)の発掘調査では、被葬者の埋葬施設には石室が存在しないことがわかり、このことから木棺を直接埋葬したもの(木棺直葬)と考えられた。また、高坏形土師器と、底部穿孔土師器という珍しい土器も出土したが、埴輪葺石等は確認されていない。

大塚山古墳や宮城県色麻町の念南寺古墳、福島県浪江町堂の森古墳などと計測上同一タイプの古墳であり、これらの古墳の影響を受けたものとみられている。また、宮城県名取市に所在する東北地方最大の前方後円墳雷神山古墳を築造した豪族との同盟関係によって造られたものと考えられる[1]

現在は史跡公園として整備されている。

主な出土遺物

  • 高坏形土師器(たかつきがたはじき)
  • 底部穿孔土師器(ていぶせんこうはじき)

所在地

〒999-2222
山形県南陽市長岡1175 (南陽市立赤湯小学校の裏手に所在する。)

交通アクセス

関連項目

脚注

  1. ^ 誉田慶喜「山形の夜明け」28-29ページ(横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』山川出版社 2003年2月)

出典・参考文献

  • 稲荷森古墳史跡公園内案内板

外部リンク