「レオポルト (ロレーヌ公)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
LucienBOT (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: es:Leopoldo I de Lorena
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: hu:I. Lipót lotaringiai herceg
34行目: 34行目:
[[es:Leopoldo I de Lorena]]
[[es:Leopoldo I de Lorena]]
[[fr:Léopold Ier de Lorraine]]
[[fr:Léopold Ier de Lorraine]]
[[hu:I. Lipót lotaringiai herceg]]
[[it:Leopoldo di Lorena]]
[[it:Leopoldo di Lorena]]
[[la:Leopoldus I (dux Lotharingiae)]]
[[la:Leopoldus I (dux Lotharingiae)]]

2009年12月30日 (水) 21:46時点における版

ロレーヌ公レオポルト
ファイル:1679 Leopold.jpg
ロレーヌ公レオポルト

レオポルト・ヨーゼフ(Leopold Joseph, 1679年9月11日 インスブルック - 1729年3月27日 リュネヴィル)はロートリンゲン(ロレーヌ)公(在位:1690年 - 1729年)。ロレーヌ公カール(シャルル)5世神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の娘エレオノーレの子。フランス語名はレオポール・ジョゼフ(Léopold Joseph)。

1697年以前、そして1702年から1714年まで、ロレーヌはフランスに占領されていた。そのためロレーヌ公家はオーストリアへ亡命しており、レオポルトはオーストリア領内で生まれた。1690年に父が死去するとロレーヌ公位を継ぎ、ウィーンで軍人となるべく教育を受けた。そして、オスマン帝国との戦争におけるティミショアラの包囲戦にたずさわり、またライン大同盟戦争の最終局面にかかわった。

1697年のレイスウェイク条約で、レオポルトはフランスルイ14世からロレーヌを取り戻した。

1698年8月17日、レオポルトは公国の首都ナンシーに入った。同年10月13日、フォンテーヌブローで、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の娘エリザベート・シャルロットと結婚した。2人の間には13子が生まれた。そのうち成人に達したのは4人である。

レオポルトの時代にリュネヴィル城が建築され、「ロレーヌのヴェルサイユ」と呼ばれた。

先代
カール5世
(シャルル5世)
ロレーヌ(ロートリンゲン)公
1690年 - 1729年
次代
フランツ3世シュテファン
(フランソワ3世エティエンヌ)
先代
皇帝カール6世
テシェン(チェシン)公
1722年 - 1729年
次代
皇帝フランツ1世