「喜連川藩」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
19行目: 19行目:
[[鎌倉公方]]以来の家臣団はかつての[[小弓公方]]方・[[古河公方]]方の対立などで複雑であり、{{和暦|1647}}には御家騒動([[喜連川騒動]])が起きている。しかしこれを切り抜けて喜連川氏の支配が続き、[[明治時代]]に至る。維新後は足利姓に復して[[子爵]]に列せられた。
[[鎌倉公方]]以来の家臣団はかつての[[小弓公方]]方・[[古河公方]]方の対立などで複雑であり、{{和暦|1647}}には御家騒動([[喜連川騒動]])が起きている。しかしこれを切り抜けて喜連川氏の支配が続き、[[明治時代]]に至る。維新後は足利姓に復して[[子爵]]に列せられた。


喜連川藩家臣は100人にも満たず、10万石の格式を保つ出費が負担で、藩財政は厳しかった。荒川・内川の氾濫と[[天保の大飢饉]]は藩財政をますます窮乏させた。9代目藩主[[喜連川煕氏]] は{{和暦|1839}}から藩政改革に乗り出し、義援米のための倉の設置、厳格な検地の実行、新田開発、藩内の士風刷新などの政策を実行しようとした。しかし家中での上士と下士の対立と、財政基盤の弱さが政策の実行を阻害し、ほとんど成果が上がらなかった<ref name="藩史大事典p155">藤野保・木村礎・村上直 編『藩史大事典 第2巻 関東編』(雄山閣、1988年) ISBN 4-639-10036-1 p155</ref>。唯一の救いは、喜連川が[[奥州街道]]沿いの宿場町であったことで、奥州の大名、わけても[[仙台藩]]の参勤交代時には喜連川の宿場は潤った。仙台藩が費用節約のために喜連川を通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。一度、仙台藩が喜連川を迂回して参勤交代した時には、御所様は義務もないのに江戸城参勤に赴き、伊達侯に嫌味を言ったと伝えられる。
喜連川藩家臣は100人にも満たず、10万石の格式を保つ出費が負担で、藩財政は厳しかった。荒川・内川の氾濫と[[天保の大飢饉]]は藩財政をますます窮乏させた。9代目藩主[[喜連川煕氏]]は{{和暦|1839}}から藩政改革に乗り出し、義援米のための倉の設置、厳格な検地の実行、新田開発、藩内の士風刷新などの政策を実行しようとした。しかし家中での上士と下士の対立と、財政基盤の弱さが政策の実行を阻害し、ほとんど成果が上がらなかった<ref name="藩史大事典p155">藤野保・木村礎・村上直 編『藩史大事典 第2巻 関東編』(雄山閣、1988年) ISBN 4-639-10036-1 p155</ref>。唯一の救いは、喜連川が[[奥州街道]]沿いの宿場町であったことで、奥州の大名、わけても[[仙台藩]]の参勤交代時には喜連川の宿場は潤った。仙台藩が費用節約のために喜連川を通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。一度、仙台藩が喜連川を迂回して参勤交代した時には、御所様は義務もないのに江戸城参勤に赴き、伊達侯に嫌味を言ったと伝えられる。


({{和暦|1870}}、喜連川藩は封土を新政府に奉還して[[日光県]]に組み込まれることになり、翌4年には日光県の合併に伴い、[[宇都宮県]]の一部となった<ref name="藩史大事典p155"/>。
({{和暦|1870}}、喜連川藩は封土を新政府に奉還して[[日光県]]に組み込まれることになり、翌4年には日光県の合併に伴い、[[宇都宮県]]の一部となった<ref name="藩史大事典p155"/>。

2009年9月26日 (土) 01:08時点における版

喜連川藩(きつれがわはん)は、関ヶ原の戦いの後に下野国喜連川に立藩された。藩庁は喜連川陣屋栃木県さくら市喜連川)。藩祖は足利国朝(正室は古河公方足利氏姫)。祖先を遡れば足利尊氏の子・足利基氏であり、喜連川家は名族足利氏のなかで唯一明治期まで大名格で存続した家である。

室町・戦国時代

藩主・喜連川氏の元の名字は足利氏である。ただし、室町将軍家の足利氏ではなく、足利尊氏の次男基氏を祖とする鎌倉公方系統の足利氏である。

基氏の系統は代々鎌倉公方を世襲して関東を支配したが、次第に京都の足利将軍家との対立傾向が目立つようになる。そして基氏の曾孫である足利持氏のとき、遂に永享の乱を起こして第6代将軍・足利義教と対立し、1439年(永享11年)に滅ぼされた。このとき、義教の命により持氏の遺児の大半が殺されたが、末子の成氏だけは赤子であるということから許された。

足利成氏は後に鎌倉公方となったものの、1455年(康正元年)に下総国古河を本拠地としたため古河公方を名乗った。しかし第2代古河公方・足利政氏は、息子の足利高基と不和になって対立し、さらに高基の弟である空然が突如還俗して足利義明を名乗り、小弓公方として自立した。

その後、小弓公方・足利義明は、第3代古河公方の兄・高基やその子の第4代古河公方・足利晴氏と徹底して対立し、関東一円に支配権を築こうとしたが、1538年(天文7年)に足利晴氏と手を結んだ北条氏綱の反撃に遭い、戦死してしまった(国府台合戦)。

結局、古河公方は晴氏の息子義氏が継いだが、次第に北条氏の圧迫を受けてその地位は名目的なものだけになり、1582年(天正10年)に義氏が死去すると、男系の後継ぎがいなかったため古河公方は断絶したが、家臣は義氏の娘・足利氏姫を擁立して古河城を守っていた。

しかし、名族である足利氏の断絶を惜しんだ豊臣秀吉は、足利氏姫を小弓公方・足利義明の孫である足利国朝に娶わせ、下野喜連川の地に400貫の所領を与えた。これが喜連川氏の興りである。

藩史

喜連川頼氏関ヶ原の戦い1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから1000石の所領を加増された。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、10万石の大名並家格と、大名として最高の尊称である御所号を許した。喜連川藩は江戸期を通じて石高が1万石に満たなかった唯一の藩ということになる。他に喜連川藩に許された特例は、参勤交代と諸役の免除があげられる。ただし、参勤交代については毎年12月に自主的に参府していた[1]

鎌倉公方以来の家臣団はかつての小弓公方方・古河公方方の対立などで複雑であり、1647年(正保4年)には御家騒動(喜連川騒動)が起きている。しかしこれを切り抜けて喜連川氏の支配が続き、明治時代に至る。維新後は足利姓に復して子爵に列せられた。

喜連川藩家臣は100人にも満たず、10万石の格式を保つ出費が負担で、藩財政は厳しかった。荒川・内川の氾濫と天保の大飢饉は藩財政をますます窮乏させた。9代目藩主喜連川煕氏1839年(天保10年)から藩政改革に乗り出し、義援米のための倉の設置、厳格な検地の実行、新田開発、藩内の士風刷新などの政策を実行しようとした。しかし家中での上士と下士の対立と、財政基盤の弱さが政策の実行を阻害し、ほとんど成果が上がらなかった[2]。唯一の救いは、喜連川が奥州街道沿いの宿場町であったことで、奥州の大名、わけても仙台藩の参勤交代時には喜連川の宿場は潤った。仙台藩が費用節約のために喜連川を通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。一度、仙台藩が喜連川を迂回して参勤交代した時には、御所様は義務もないのに江戸城参勤に赴き、伊達侯に嫌味を言ったと伝えられる。

1870年(明治3年)、喜連川藩は封土を新政府に奉還して日光県に組み込まれることになり、翌4年には日光県の合併に伴い、宇都宮県の一部となった[2]

教育

喜連川煕氏は1845年(弘化2年)、喜連川町宇倉ヶ崎に藩校・翰林館(かんりんかん)(通称広連閣)を設立。領内改革の一環として藩士子弟を教育させた。藩校においては和漢書の読書、詩文、書跡、武芸が奨励された。煕氏の領内改革自体は挫折するものの、藩校は明治維新を迎えても私塾として1883年(明治16年)まで存続した[3]

歴代藩主

喜連川(足利)家

外様、4500石→5800石

藩祖・足利国朝(喜連川国朝)

  1. 喜連川頼氏
  2. 喜連川尊信
  3. 喜連川昭氏
  4. 喜連川氏春
  5. 喜連川茂氏
  6. 喜連川氏連
  7. 喜連川恵氏
  8. 喜連川彭氏
  9. 喜連川煕氏
  10. 喜連川宜氏(長岡護美こと紀氏を熊本藩から迎えたが、宜氏に養子交代)
  11. 喜連川縄氏
  12. 足利聡氏(足利姓に復姓)

参考文献

  • 山下昌也『日本一小さな大大名 たった五千石で、徳川将軍家と肩を並べた喜連川藩の江戸時代』(グラフ社、2008年) ISBN 978-4-7662-1182-5

関連項目

脚注・出典

  1. ^ 『喜連川公方実記』
  2. ^ a b 藤野保・木村礎・村上直 編『藩史大事典 第2巻 関東編』(雄山閣、1988年) ISBN 4-639-10036-1 p155
  3. ^ 『栃木県史』通史編5 近世2