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2009年3月1日 (日) 22:08時点における版
賀茂宮(かものみや、元和4年10月5日(1618年11月21日) - 元和8年10月2日(1622年11月4日))は、江戸時代前期の皇族。後水尾天皇の第一皇子。母は典侍四辻与津子(お与津御寮人)。同母妹に文智女王がいる。
後水尾天皇の第一皇子として生まれた。この年には徳川秀忠の娘・和子が入内する予定だったが、賀茂宮の誕生により延期される事となった。また、翌年には梅宮(後の文智女王)が生まれて再び延期となったため、不行跡として母与津子と妹梅宮は宮中より追放させられ、伯父四辻季継・高倉嗣良を含む公卿にも流罪や出仕差し止めの処分が下された。
このような不祥事があったためか、賀茂宮は一部の系図史料(『本朝皇胤紹運録』など)に掲載がされていない。
その後、賀茂宮は1622年(元和8年)10月2日(新暦:11月4日)、成人することなく薨去。戒名は景雲院諦月英秋。