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*ちょうどこの頃は、NHKなどの[[政見放送]]がラジオからテレビに切り替わった時期で、政治家たちは、自らに向けられるカメラに緊張し、歯切れの悪い放送も目立ったが、高田がんはテンポ良く、トチる事もなく一発でテレビ政見放送収録に臨んだ。
*ちょうどこの頃は、NHKなどの[[政見放送]]がラジオからテレビに切り替わった時期で、政治家たちは、自らに向けられるカメラに緊張し、歯切れの悪い放送も目立ったが、高田がんはテンポ良く、トチる事もなく一発でテレビ政見放送収録に臨んだ。
*気性が激しく、街頭演説や立会演説で誰かが冷やかすと、「この野郎!文句があるならこっちへ来い」等と息巻く一面もあった。

*また、子煩悩でも知られ、高田がんの[[選挙演説|立会演説会]]会場には、彼の子供達がズラリ一列に並ぶ事もあった。
*また、子煩悩でも知られ、高田がんの[[選挙演説|立会演説会]]会場には、彼の子供達がズラリ一列に並ぶ事もあった。


*実家は纏まった山林を持つ地主で、外部の支援を受けていた事もあり、生涯を通して定職には就かなかったものの、選挙資金に不自由していなかった模様。
*実家は纏まった山林を持つ地主で、外部の支援を受けていた事もあり、生涯を通して定職には就かなかった(「[[履歴書]]をこの数十年書いていない」と豪語していた)ものの、選挙資金に不自由していなかった模様。


*選挙公報は、活動初期の頃は国粋・右翼的文言が目立ち、中期になると、激情抑え難きところがあったのか、法華経を丸写ししたり「人心一新 高田がん」とだけ大書していた。後期は、激動の生い立ちを語り、数十回の選挙戦を懐古し、抱負を述べるという雛形に落ち着いた。なお、末期にはワープロを用いていた。
*選挙公報は、活動初期の頃は国粋・右翼的文言が目立ち、中期になると、激情抑え難きところがあったのか、法華経を丸写ししたり「人心一新 高田がん」とだけ大書していた。後期は、激動の生い立ちを語り、数十回の選挙戦を懐古し、抱負を述べるという雛形に落ち着いた。なお、末期にはワープロを用いていた。

2009年2月4日 (水) 16:10時点における版

高田がん高田巌、たかだ がん、1930年5月23日 - ? )は愛媛県八幡浜市出身、東京都世田谷区在住の政治運動家特殊株主。「反共全国遊説隊」隊長、元自称「参議院比例代表研究家」。広義の行動右翼に該当するが仁侠系人士ではない。

経歴

  • 17歳で中学校代用教員に採用される(正規の教員が復職するまでの臨時措置。当時として珍しい事ではない)。敗戦直後の動乱期に新聞配達から日雇労働まで多彩な職業を変転し、その中でアプレゲール的信念としての反共主義に基づく「赤狩り」志向が醸成された模様。
  • 1964年、大量立候補に関する詐欺罪で摘発された肥後亨が収監中に急死したため、暫く他団体に身を寄せた後、1969年に自らの一人一党「反共全国遊説隊」を旗揚げし(政治団体届出はされていない)、肥後から選挙屋稼業を継承。隊長と称して全国の知事選を含む各種首長選、国政選挙から市区議会議員補欠選挙に至るまで、1970年代を通じ選挙機会を見ては出馬。71選総てに落選し、その殆どにおいて法定得票数未達で供託金を没収されるも、露出の多さから一定の知名度を得る。
  • 政治ゴロ行為(特定候補への逆宣伝と減票工作を請け負う)を巡る仲間割れから、1982年には長崎県警恐喝罪で摘発される。商法改正で特殊株主に厳しい規制が加えられた1980年代半ばより不活発化し、巨額の供託金出費を伴う国政選、知事選への立候補が見られなくなり、従って政見放送の機会もなくなったため、次第に忘れられた存在になる。
  • ソ連崩壊後の平成初期にも散発的に立候補し、東京都議会議員補欠選挙では法定得票を上回る善戦振りを見せた事もあったものの、各右翼団体の最大のパトロンだった笹川良一国際勝共連合元名誉会長)の死去に伴い、完全に沙汰止みになる。2002年に一旦は活動再開を宣言し、地方選挙に立候補の動きを見せたが出馬には至らず、その後の消息は不明。

エピソード

  • 幼くして父を亡くした事もあり、学生時代から自立心は強く、また生来の気性の激しさもあり、やんちゃであった。
  • 当初は右翼・民族派・天皇主義的政見が際立ったが、「泡沫候補の高田がん」という名前が全国に浸透した1970年代以降は、歯切れのよい言葉を並べた選挙公報と、マシンガンのような独特のダミ声の立会い演説で注目されるようになる。本人も、新聞の候補者紹介の中で「演説は赤尾敏より上だ」と断言していたほどである。
  • ちょうどこの頃は、NHKなどの政見放送がラジオからテレビに切り替わった時期で、政治家たちは、自らに向けられるカメラに緊張し、歯切れの悪い放送も目立ったが、高田がんはテンポ良く、トチる事もなく一発でテレビ政見放送収録に臨んだ。
  • 気性が激しく、街頭演説や立会演説で誰かが冷やかすと、「この野郎!文句があるならこっちへ来い」等と息巻く一面もあった。
  • また、子煩悩でも知られ、高田がんの立会演説会会場には、彼の子供達がズラリ一列に並ぶ事もあった。
  • 実家は纏まった山林を持つ地主で、外部の支援を受けていた事もあり、生涯を通して定職には就かなかった(「履歴書をこの数十年書いていない」と豪語していた)ものの、選挙資金に不自由していなかった模様。
  • 選挙公報は、活動初期の頃は国粋・右翼的文言が目立ち、中期になると、激情抑え難きところがあったのか、法華経を丸写ししたり「人心一新 高田がん」とだけ大書していた。後期は、激動の生い立ちを語り、数十回の選挙戦を懐古し、抱負を述べるという雛形に落ち着いた。なお、末期にはワープロを用いていた。
  • 昭和49・52・55年の参院選全国区に三回連続立候補しており、有名人や著名人が毎回多数立候補する中で、順調に票数を増やしていった。出生地愛媛県の県内得票においては50番以内であり、当選圏内であった。55年の参院選の選挙公報では「今度こそ」の文言が見られ、本人も当選を見据えていたのではないかと推測される。

立候補歴

  • 1963年 4月 東京都知事選挙 肥後亨 8032票 落選 供託金没収
  • 1963年11月 衆議院 東京5区 背番号(肥後亨事務所) 117票 夫婦共に落選 供託金没収
  • 1965年 7月 参議院 東京選挙区 高田がん後援会本部(反共遊撃隊) 7127票 落選 供託金没収
  • 1966年 1月 京都市長選挙 無所属 2452票 落選 供託金没収
  • 1966年 4月 参議院議員補欠選挙 京都府 無所属 7083票 落選 供託金没収
  • 1966年11月 参議院議員補欠選挙 愛知県 無所属 10033票 落選 供託金没収
  • 1967年 8月 参議院議員補欠選挙 群馬県 無所属 5903票 落選 供託金没収
  • 1967年12月 高知県知事選挙 無所属 5890票 落選 供託金没収
  • 1968年 7月 参議院 愛媛選挙区 無所属 24378票 落選 供託金没収
  • 1969年 1月 保谷市長選挙 無所属 94票 落選 供託金没収
  • 1969年 4月 名古屋市長選挙 反共全国遊説隊 1164票 落選 供託金没収
  • 1969年 5月 田無市長選挙 反共全国遊説隊 64票 落選 供託金没収
  • 1969年12月 衆議院 愛媛3区 反共全国遊説隊 2166票 落選 供託金没収
  • 1970年 4月 京都府知事選挙 反共全国遊説隊 1220票 落選 供託金没収
  • 1971年 2月 京都市長選挙 反共全国遊説隊 1116票 落選 供託金没収
  • 1971年11月 西条市長選挙 反共全国遊説隊 166票 落選 供託金没収
  • 1972年 4月 宇和島市長選挙 反共全国遊説隊 114票 落選 供託金没収
  • 1972年 6月 埼玉県知事選挙 反共全国遊説隊 8640票 落選 供託金没収
  • 1972年 8月 山口県知事選挙 反共全国遊説隊 12031票 落選 供託金没収
  • 1972年10月 岡山県知事選挙 反共全国遊説隊 1769票 落選 供託金没収
  • 1972年12月 衆議院 愛媛3区 反共全国遊説隊 534票 落選 供託金没収
  • 1973年 3月 宮城県知事選挙 反共全国遊説隊 5483票 落選 供託金没収
  • 1973年 6月 参議院議員補欠選挙 大阪府 反共全国遊説隊 6393票 落選 供託金没収
  • 1973年 9月 徳島県知事選挙 反共全国遊説隊 1203票 落選 供託金没収
  • 1973年12月 広島県知事選挙 反共全国遊説隊 15915票 落選 供託金没収
  • 1974年 1月 参議院議員補欠選挙 反共全国遊説隊 香川県 2368票 落選 供託金没収
  • 1974年 4月 京都府知事選挙 反共全国遊説隊 3491票 落選 供託金没収
  • 1973年 4月 名古屋市長選挙 反共全国遊説隊 894票 落選 供託金没収
  • 1974年 5月 参議院議員補欠選挙 高知県 反共全国遊説隊 3537票 落選 供託金没収
  • 1974年 7月 参議院 全国区 反共全国遊説隊 36197票 落選 供託金没収
  • 1974年 9月 岐阜県知事選挙 反共全国遊説隊 11381票 落選 供託金没収
  • 1974年 8月 岐阜市長選挙 反共全国遊説隊 825票 落選 供託金没収
  • 1973年10月 神戸市長選挙 反共全国遊説隊 671票 落選 供託金没収
  • 1974年11月 兵庫県知事選挙 反共全国遊説隊 7694票 落選 供託金没収
  • 1974年12月 参議院議員補欠選挙 栃木県 反共全国遊説隊 9457票 落選 供託金没収
  • 1975年 1月 愛媛県知事選挙 反共全国遊説隊 9251票 落選 供託金没収
  • 1975年 2月 京都市長選挙 反共全国遊説隊 7877票 落選 供託金没収
  • 1975年 4月 世田谷区長選挙 反共全国遊説隊 4231票 落選 供託金没収
  • 1975年 4月 大阪市長選挙 反共全国遊説隊 8057票 落選 供託金没収
  • 1975年 4月 大阪府知事選挙 反共全国遊説隊 12597票 落選 供託金没収
  • 1976年 4月 福島県知事選挙 反共全国遊説隊 11020票 落選 供託金没収
  • 1976年 7月 群馬県知事選挙 反共全国遊説隊 6322票 落選 供託金没収
  • 1976年 9月 福島県知事(再選挙) 反共全国遊説隊 8120票 落選 供託金没収
  • 1976年10月 岡山県知事選挙 反共全国遊説隊 29490票 落選 供託金没収
  • 1976年12月 衆議院 新潟3区 反共全国遊説隊 1044票 落選 供託金没収
  • 1977年 2月 岐阜県知事選挙 反共全国遊説隊 5060票 落選 供託金没収
  • 1977年 5月 参議院議員補欠選挙 新潟県 反共全国遊説隊 15553票 落選 供託金没収
  • 1977年 7月 参議院 全国区 反共全国遊説隊 70631票 落選 供託金没収
  • 1977年 9月 参議院議員補欠選挙 熊本県 反共全国遊説隊 6887票 落選 供託金没収
  • 1978年 2月 参議院議員補欠選挙 茨城県 反共全国遊説隊 5610票 落選 供託金没収
  • 1979年 1月 愛媛県知事選挙 反共全国遊説隊 15423票 落選 供託金没収
  • 1979年 2月 東予市長選挙 反共全国遊説隊 507票 落選 供託金没収
  • 1979年 4月 神奈川県知事選挙 反共全国遊説隊 47959票 落選 供託金没収
  • 1979年 4月 世田谷区長選挙 反共全国遊説隊 13154票 落選 供託金没収
  • 1979年10月 衆議院 熊本1区 反共全国遊説隊 1092票 落選 供託金没収
  • 1980年 6月 参議院 全国区 反共全国遊説隊 89762票 落選 供託金没収
  • 1981年 3月 参議院議員補欠選挙 千葉県 反共全国遊説隊 13116票 落選 供託金没収
  • 1981年 4月 千葉県知事選挙 反共全国遊説隊 11974票 落選 供託金没収
  • 1982年 2月 横浜市長選挙 反共全国遊説隊 6927票 落選 供託金没収
  • 1982年11月 長岡市長選挙 比例代表制研究会 664票 落選 供託金没収
  • 1983年 4月 川崎市長選挙 反共全国遊説隊 32281票 落選 供託金没収
  • 1983年 4月 世田谷区長選挙 反共全国遊説隊 ?票 落選 供託金没収
  • 1983年 8月 衆議院 京都2区補欠選挙 反共全国遊説隊 1417票 落選 供託金没収
  • 1986年 4月 横浜市長選挙 無所属 9759票 落選 供託金没収
  • 1986年 6月 中野区長選挙 無所属 1225票 落選 供託金没収
  • 1987年 4月 世田谷区議会議員選挙 無所属 324票 落選 供託金没収
  • 1987年 4月 東京都議会議員補欠選挙 無所属 世田谷区 1565票 落選 供託金返還
  • 1987年10月 逗子市長選挙 無所属 89票 落選 供託金没収
  • 1991年 4月 新宿区長選挙 新しい新宿を創る会 1504票 落選 供託金没収
  • 1991年 4月 東京都議会議員補欠選挙 新宿区 新都心調査研究会 1513票 落選 供託金返還
  • 1992年 7月 東京都議会議員補欠選挙 渋谷区 無所属 2403票 落選 供託金返還

外部リンク