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'''能円'''(のうえん、[[保延]]6年([[1140年]]) - [[正治]]元年([[1199年]])は[[平安時代]]末期の[[僧侶]]。[[皇后宮亮]][[藤原顕憲]]の子。母は[[令子内親王]]に仕えた下女で、異父同母兄姉に[[平時子]]、[[平時忠]]らがある。同父異母兄弟には[[藤原盛憲]]、[[藤原憲親|憲親]]、[[藤原経憲|経憲]]、[[玄顕]]らがあり、息女には[[源在子|在子]](承明門院)、[[藤原信子|信子]]らがある。
'''能円'''(のうえん、[[保延]]6年([[1140年]]) - [[正治]]元年([[1199年]])は[[平安時代]]末期の[[僧侶]]。[[皇后宮亮]][[藤原顕憲]]([[藤原盛実]]の子)の子。母は[[令子内親王]]に仕えた下女(一説には[[藤原家憲]]の娘)で、異父同母兄姉に[[平時子]]、[[平時忠]]らがある。同父異母兄弟には[[藤原盛憲]]、[[藤原憲親|憲親]]、[[藤原経憲|経憲]]、[[玄顕]]らがあり、息女には[[源在子|在子]](承明門院)、[[藤原信子|信子]]らがある。


異父姉の時子から目をかけられ、その養子となる。時子の夫[[平清盛]]が[[平氏政権]]を樹立していくのに従って立身し、[[法勝寺]]の[[執行]]に任ぜられる。僧侶の身ではあったが[[藤原範兼]]の娘の[[藤原範子|範子]]と結婚し、一女・在子を儲けた。範子が[[高倉天皇]]の第四皇子尊成親王の[[乳母]]になると、宮廷にも人脈を拡大した。
異父姉の時子から目をかけられ、その養子となる。時子の夫[[平清盛]]が[[平氏政権]]を樹立していくのに従って立身し、[[法勝寺]]の[[執行]]に任ぜられる。僧侶の身ではあったが[[藤原範兼]]の娘の[[藤原範子|範子]]と結婚し、一女・在子を儲けた。範子が[[高倉天皇]]の第四皇子尊成親王の[[乳母]]になると、宮廷にも人脈を拡大した。

2009年1月16日 (金) 16:10時点における版

能円(のうえん、保延6年(1140年) - 正治元年(1199年)は平安時代末期の僧侶皇后宮亮藤原顕憲藤原盛実の子)の子。母は令子内親王に仕えた下女(一説には藤原家憲の娘)で、異父同母兄姉に平時子平時忠らがある。同父異母兄弟には藤原盛憲憲親経憲玄顕らがあり、息女には在子(承明門院)、信子らがある。

異父姉の時子から目をかけられ、その養子となる。時子の夫平清盛平氏政権を樹立していくのに従って立身し、法勝寺執行に任ぜられる。僧侶の身ではあったが藤原範兼の娘の範子と結婚し、一女・在子を儲けた。範子が高倉天皇の第四皇子尊成親王の乳母になると、宮廷にも人脈を拡大した。

しかし、寿永2年(1183年)の平家一門の都落ちに従ったことから運命が暗転する。直後に尊成親王は後鳥羽天皇として即位するが、能円は遠く西海にあり、虚しくその報を聞くのみであった。やがて元暦元年(1185年)に壇ノ浦の合戦で平家が滅亡すると、捕虜として都に送られ、裁きの上備中国への流罪となった。

この間都に残っていた範子は、在子を連れて源通親と再婚。能円は文治5年(1189年)に赦免され帰洛するが、範子は既に通親との間に定通通方らを産み、更に懐妊中という状態であった。在子は後鳥羽天皇の寵愛を受け、建久6年(1196年)に皇子為仁親王を生む。同親王は建久9年(1198年)に土御門天皇として即位し、能円は血縁上は天皇の外祖父となったが、それに相応しい厚遇を受けることはなかった。通親の権勢が増していくのを横目に、正治元年(1199年)に死去している。